2023年8月30祈祷会


2023年8月30日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会 

 

本日の聖書箇所:コリント人への第二の手紙6:1~2 (口語訳:新約283頁)

 

 コリント教会は、パウロにとって気になってしょうがない教会でした。コリント人への第一・第二の手紙を合わせると26章もあり、パウロが執筆した数々の手紙の中でコリントに宛てた手紙が最も分量を占めていることが分かります。数えきれない問題を抱えていたコリント教会でしたが、パウロはコリント教会を愛するがゆえに、熱意を込めて手紙を送り続けました。かつて、教会の迫害者であったパウロは神さまから切り捨てられず、十字架のイエスさまのゆえに赦され、教会に受け入れられました。この驚くべき赦しと恵みを体験したパウロでしたので、今度はパウロが「コリント教会を諦めてたまるか」という思いで訴え続けたのです。神さまからの「高価な恵みと赦し」を体験したパウロは、それに精一杯応えられずにいられないという姿勢が、これらの手紙から伝わってくると言えるでしょう。そして、訴え続けることは、必ずしも歓迎されることではなく、それなりの抵抗を受けながらしたことなのです。

 今日の1節にこうあります「わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。」。他の聖書でこの後半部分は、「あなた達は神のこの恵みを受け取って(実を結ばせ)、むだにしないように」(塚本訳)・「あなたがたが空しく神の恵みを受けることがないように」(青野訳)と訳されています。十字架のイエスさまが下さった恵み・赦しの尊さを考えれば、それをむだにするわけにいかないでしょ・・・この恵みは高価で尊い、それ故に実を結ばずにいられない・・・たとえそれに苦しみが伴うものであったとしても・・・このように、パウロは今日のところで私たちに強烈に、恵みへの応答を訴えてくるのです。

 反ナチス運動に加わったことで、第二次世界大戦中に処刑されたディートリッヒ・ボンヘッファーは、相反する考えとして、「高価な恵み」と「安価な恵み」を数々の執筆物で紹介しています。ボンヘッファーが言う「安価な恵み」は、今日の箇所から読み取れる「空しく恵みを受け取る」ことに通じるものだと言えるでしょう。ボンヘッファーは「主に従う」(新教出版社)という本の中で、「安価な恵み」についてこのように述べています「安価な恵みは、悔い改めのない赦しであり、訓練のない洗礼であり、罪の告白のない聖餐(晩餐)であり、個人としての懺悔(ざんげ)のない赦しである。安価な恵みは、主に従うことを要しない恵みであり、十字架のない恵みであり、人となりたもうた生けるイエス・キリストのない恵みである。」。「安価な恵み」は「生けるイエス・キリスト」が見えない光景であるということです。ということは「高価な恵み」は「生けるイエス・キリスト」が証しされる歩みであると言えるでしょう。パウロが絶えず訴えようとしたことは、「生けるイエス・キリスト」を証しすること・・・「生けるイエス・キリスト」という光景を祈り求めていく歩みは必ず困難や苦闘が伴うものでしょうけど、その中で「生けるイエス・キリスト」に出会わされる・・・それ故に、その歩みにおいて深い恵みがあるという確証に基づいたものでした。そして、パウロに言わせれば「今が恵みの時、・・・今が救の日」なのです(2節)。明日でもなく、明後日でもなく、「今」なのです。

 神さまの恵みの尊さ・・・アガペーの広さ深さに今一度心打たれ、「生けるイエス・キリスト」が証しされる日々でありたい・・・そう祈りたいと思わされたみ言葉でした。  (西本詩生)

 

≪祈りのリクエスト≫

①教会の伝道の働き・教会財政のために。

②バプテスマ・入会準備中の方々。

③入院/療養中/高齢で来られない方々。

④誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤主日礼拝(西本詩生牧師)

⑥「聖書を学び合う会」の活動のため。

⑦ひかり幼稚園の働きのため。

⑧弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑨各神学校と神学生のため。

⑩道内の教会(無牧師の苫小牧)、ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]のため。

⑪日本と世界の平和のため(ウクライナとロシア、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑫困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。

 

≪私の祈りのリクエスト≫

 


2023年8月23祈祷会


2023年8月23日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会 

 

本日の聖書箇所:ペテロの第二の手紙3:6~9 (口語訳:新約374頁)

 

 キリスト教会が誕生して、月日が経つにつれ、イエスさまの教えを自分の耳で聞いた人たちは徐々に召され、教会の人々は第二世代、第三世代に移っていきました。そうなると、イエスさまの教えに沿わない考えも教会で語られるようになり、今日のペテロの第二の手紙は、イエスさまの教えに引き戻すために書かれた手紙です。この手紙は特に「主の日」・・・「神さまによる裁きの日」に関する考えに注目しています。この手紙が書かれた時には、「主の日は無いのだから、自分の思うままに生きればよい」という教えが教会で語られていたようです。その教えに対して、「神さまによる裁きの日は必ず来る」とこの手紙は強調したのです。10節で「その日(主の日)には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。」とあるようにです。

 「天地とその内が焼き尽くされる」と聞くと、とても恐ろしいイメージが浮かぶと思います。けれども、焼き尽くされるイメージは、神さまの裁きの一面だけを捉えています。つまり、神さまの怒りは怒りで終わらず、その後があり、目的があるのです。

 神さまの裁きと怒りの目的は何なのでしょうか?それは13節にあるように「(神さまの)義の住む新しい天と新しい地」をもたらすためです。ヨハネによる黙示録21:3~4によると「新しい天と新しい地」では「神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さり、もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない」のです。聖書によると、死・悲しみ・叫び・痛みは罪に根をもつものであり、神さまの裁きは罪を焼き滅ぼし、罪の結果からの解放をもたらすためにあるのです。つまり、人を生かすための怒りであり、裁きなのです。罪に悩まされる人にとっては福音です。

 今日の6~9節は「なぜ、もっと早くイエスさまは再臨されないのか?なぜもっと早く主の日は来ないのか?」という質問に対する応答です。特に9節はこれら質問に明確に答えています「ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを(神が)望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられる」からまだ再臨がないと著者は言うのです。ひとりひとりが、強いられたからではなく、心から悔い改めるために、神さまはあきらめずに辛抱強く長く忍耐されているのです。

 牧師をしていると、いろんな人とお話をします。依存症で生活が成り立たない人、家族・友人との不健全な関係にある人などなど・・・パッと見、人生の方向転換(悔い改め)が必要と思えることを耳にします。時にははっきりと「それは間違いだ」と言わなくてはいけない場面もあり、「正しいこと」を伝えなくてはいけない時もあるのでしょう。ただ、ほとんどの場合、それをすると、望んでいたことと真逆なことが起こります。連絡が途絶えたり、課題が悪化したり、心をさらに閉ざす・・・そんな失敗を繰り返す2年半を過ごしてきました。それらの失敗から教わることは、最も効果的なことはその相手の話を聴き、直面している状況を汲み取り、その歩みを共にすることです。そして、時には問いを投げかけ、そのようにして人生の伴走者となれればと願うことです。自らが踏むこれからのステップは自分で選ばなければ、長続きしません。本心ではないからです。なぜこれを紹介するかと言うと、神さまが忍耐されているこの期間、何をなされているかを考えるからです。恐らく、神さまは、この期間、私たちの傍らにおられ、人生の伴走者となってくださっているのです。悔い改めの道を、私たちが心から、また、自主的に選ぶことを願い求めながら、神さまは忍耐強く一歩ずつ私たちと歩まれるのです。十字架で神さまの裁きを受けられたイエスさまですから、なおさら重みがある言葉です・・・「ひとりも滅びることがない」ことを望んで、私たちをあきらめずにどこまでも共におられるのです。 (西本詩生)

 

≪祈りのリクエスト≫

①教会の伝道の働き・教会財政のために。

②バプテスマ・入会準備中の方々。

③入院/療養中/高齢で来られない方々。

④誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤主日礼拝(西本詩生牧師)

⑥「聖書を学び合う会」の活動のため。

⑦ひかり幼稚園の働きのため。

⑧弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑨各神学校と神学生のため。

⑩道内の教会(無牧師の苫小牧)、ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]のため。

⑪日本と世界の平和のため(ウクライナとロシア、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑫困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。

 

≪私の祈りのリクエスト≫

 


2023年8月16祈祷会


2023年8月16日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会 

 

本日の聖書箇所:出エジプト記20:24 (口語訳:旧約103頁)

 

 今日は、十戒のすぐ後に与えられた、礼拝に関する律法の一部分です。こうあります、「あなたはわたしのために土の祭壇を築き、その上にあなたの燔祭、酬恩祭、羊、牛をささげなければならない。わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしは あなたに臨んで、あなたを祝福するであろう。」

 「燔祭(はんさい)」とは「焼き尽くす献げ物」を意味し、一部分だけでなく、ささげられたすべてが焼かれるものです。全てがカラカラになるまで焼かれ、その香りが主に喜ばれるという意味があるようです。私たちも礼拝をささげる時、一部分を神さまに差し出すのではなく、私たちの全てをささげると言われることがあります。つまり、何も隠さず全てを神さまに差し出し、主が最善をなしてくださることを心に留める時であるのです。わたしたちが「どうしようもない」と思っていることも含めて、神さまは受け取ってくださり、私たちの想像を超える計らいを与えて下さるのです。

 「酬恩祭(しゅうおんさい)」は「和解のささげもの」や「会食」と訳されるものです。上の「焼き尽くす献げ物」とは別のものです。ヘブライ語では「シェレ-ム」と発音し、「シャローム(主の平和)」に語源を持つ言葉です。「会食」と訳されるように、礼拝者はその焼かれたささげものを共に食べ礼拝をささげました。先日、青少年を対象に日高でキャンプを開き、私はそこでバーベーキュー(調理)を担当しました。改めて思わされたことは、食事は人をつなげるということです。そこには、久しぶりに教会のイベントに参加した人もいましたが、食事を共にしながら、緊張が解かれて、お互い仲良くなっていく姿をみたように思います。教会では月に一回礼拝後の昼食会をもっていますが、これも礼拝の一部だと私はいつも思いながら、食事を共にすることの大切さを覚えています。そのような交わりを通して、互いへの祈りが深められることを期待するのです。また、お弁当プロジェクトでは、お弁当をお渡しすることを重視せず、来られるお一人おひとりとの対話を重んじています。できるのであれば、一緒に食事することを目指しています。普通であったら絶対出会わない人たちに出会わされています。つまり、本来つながらない者同士が、お弁当を通してつながるのです。このことを通しても、主の和解を見させてもらっているように思うのです。

 「わたしの名を覚えさせるすべての所で」という表現には、礼拝に関する大事な視点が含まれていると思います。日曜日の朝、私たちは自分の意思で礼拝に集います。けれども、聖書に言わせると私たちの意思に先立って神さまが私たちを礼拝に招いてくださっているのです。今日の聖書が言うように、神さまが自らの「名を(わたしたちに)覚えさせ」ているのです。礼拝の一番初めに「招詞」というみ言葉が読みあがられますが、それは、神さまが今日も私たちを礼拝に招いてくださったことを思い出すための礼拝の一部分だと言えるでしょう。そして、生活の全領域で、善き神さまが先立って守り導いてくださっていることを覚えさせるための「招詞」なのです。

 今日は、礼拝に関する律法を通して、私たちの礼拝を考えさせられるみ言葉でした。感謝です。(西本詩生)

 

≪祈りのリクエスト≫

①教会の伝道の働き・教会財政のために。

②バプテスマ・入会準備中の方々。

③入院/療養中/高齢で来られない方々。

④誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤主日礼拝(西本詩生牧師)

⑥「聖書を学び合う会」の活動のため。

⑦ひかり幼稚園の働きのため。

⑧弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑨各神学校と神学生のため。

⑩道内の教会(無牧師の苫小牧)、ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]のため。

⑪日本と世界の平和のため(ウクライナとロシア、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑫困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。

≪私の祈りのリクエスト≫

 


2023年8月9祈祷会


2023年8月9日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会 

 

本日の聖書箇所:詩篇133:1~3 (口語訳:新約867頁)

 

・この詩は、「ダビデがよんだ都もうでの歌」と表題がつけられています。エルサレムに到着し、皆が祭りに集った時の喜びや楽しさを思いながら詠われたのでしょう。

1節の「兄弟が和合して共におる」というのは、新共同訳では「共に座っている」、新改訳では「一つになって共に住む」と訳されています。「共に」という言葉は、旧約聖書の中で484回も使われており、その内97回は「共に集う」という意味で使われているそうです。バビロン捕囚などを通らされ、何度もバラバラに引き離されてきたイスラエルの民にとっては、「共に集う」というのは、決して当たり前のことではなく、この上のない喜びを伴う出来事だったはずです。

・ちなみに、この詩篇は3節からなるとても短いシンプルな構成になっており、全体を通して喜びが表現されています。でも、その喜びの表現方法は、ぼくら現代人にとっては、ギョッとするようなやり方でした。何せ頭から油を…、しかも、かなりにおいのきつい油をぶっかけるというのですから…。しかも、半端な量ではありませんよ。ひげにまで流れ、更には服の襟にまで滴り落ちるほどだというんです。今みたいにシャワーがあるわけではないですから、その後、大変だったでしょうね。どうやって洗ったんでしょうね。洗っても、しばらくは、においもヌルヌルも取れなかったでしょうね…。

・それでも、それをしのぐ喜びと祝福とがあったということでしょう。「アロンのひげ」と出てくるこのアロンは、イスラエルの民をエジプトから導き出したモーセの兄・アロンです。アロンは、神さまから初代の祭司に任命されました。その任命のシーンで、アロンはモーセに油をかけられました。そのことを受け、聖書で「油を注ぐ」というのは、特別な祝福を表す行為とされます。

・3節には「ヘルモンの露」とあります。パレスチナ地方では、夏の夜明けには寒暖差によって、必ずといっていいほど露が降りるそうです。そして、雨の少ないパレスチナでは、降りてもすぐに消えてしまうようなその露すらも、葡萄などの農作物の成長や、家畜の維持に欠かせないものだったようです。かつて、モーセも祝福の祈りの中で、「主の祝福が、彼の地にあるように。天の賜物の露、下に横たわる大いなる水の賜物」と祈ったように、露は神さまの祝福そのものを意味したようです。

・1節の「共におる」という言葉は、一時的な滞在を意味する言葉のようですが、新改訳では「共に住む」とも訳されているように、詩人の中には、一時的でなく共に生きることへの願望もあったのかもしれません。イスラエルの歴史を振り返っても、彼らの祖先であるアブラハムも、イサクも、ヤコブも、その家族は仲睦まじく、一つになって共に住むということが、なかなかできませんでした。血のつながったきょうだいや親子ですらそうなのです。そして、それは人々の弱さや罪深さゆえに…です。

・まして、さまざまな人々が集う教会が、ひとつとなって共に集うことには、大変な困難が伴います。衝突があり、争いがあって、当たり前だということです。だからこそ、わたしたちは共に集うために、十字架のキリストを覚えるのです。一人ひとりが、ただただ一方的に赦され、愛されている存在であることを認め合いつつ、互いを排除し合わず、平和を実現する群れへと向かえますように。(石橋大輔)

 

≪祈りのリクエスト≫

①教会の伝道の働き・教会財政のために。

②バプテスマ・入会準備中の方々。

③入院/療養中/高齢で来られない方々。

④誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤主日礼拝(西本詩生牧師)

⑥「聖書を学び合う会」の活動のため。

⑦ひかり幼稚園の働きのため。

⑧弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑨各神学校と神学生のため。

⑩道内の教会(無牧師の苫小牧)、ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]のため。

⑪日本と世界の平和のため(ウクライナとロシア、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑫困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。

≪私の祈りのリクエスト≫

 


2023年8月2祈祷会


2023年8月2日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会 

 

本日の聖書箇所:コリント人への第二の手紙5:1~5 (口語訳:新約282頁)

 

 今日の聖書箇所の詳細に入る前に、キリスト教の「時の流れ」の感覚について触れたいと思います。仏教は時の流れを“円”で表すと言われています。「前世」・「来世」という言葉が象徴するように、生命は繰り返されていくという考えが基盤にあります。“円”ですので、厳密に言えば始まりも、終わりもありません。それとは対照的に、キリスト教は時の流れを“線”で表します。始まりがあり、終わり(完成)があるという感覚です。そして、私たちはまだその線の途中・・・旅路の途中にあるということが大前提とされています。

 私たちはどのような旅路の途中にあるのでしょうか?・・・聖書によれば、救いの物語の途中にあるということです。「既に」イエスさまを私たちの日常に来てくださり、神さまの救いの物語は「既に」始まっています。そうなのですが、未だにその救いは完成(終わりを迎えていない)されていないと言わざるを得ません。外に目を向ければ、涙と苦しみを生み出す紛争は絶えませんし、内側に目を向ければ、私たち自身も罪の現状から抜け出せているわけでもありません。それでも、イエスさまは共にいてくださり、絶えず十字架の赦しを差し伸べてくださっています。救いは確かに始まっているのです。けれども、完成はしていません。このような意味において、私たちはまだ、線の途中・・・救いの物語の途上にあるのです。「既に」救いは始まっているのですが、「未だに」それは完成されていない・・・「“既に”と“未だに”の間」に私たちはあるのです。

 話しを少し変えますが、先週の土曜日、連合が開催している信徒セミナーが苫小牧バプテスト教会で開催されました。それに参加するために、4名で苫小牧に向かいました。行き帰りの車の中で、様々なことについて語り合いました。その会話の中で「どこが住みやすいか」ということも話されました。「北海道は何でも美味しい・・空気も水も美味しい」・・「○○の人たちは温厚で、そこはとても過ごしやすい」などなど、いろんな見解が交わされました。皆さんにとってどこが住みやすいでしょうか?そして、どのような条件が整っていると住みやすいと感じるのでしょうか?なぜ、このようなことを問いかけるかというと、今日のパウロの手紙で語られているのは「住まい」のことだからです。

 パウロは1節でこう言います、「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。」。救いの物語の途上の「幕屋」(テント・仮住まい)と、救いが完成された時の「永遠の家」が対照的に語られています。パウロに言わせれば、私たちの今の住家や生活環境を「天の家・・・天の居場所」に比べたとすれば、それは「仮住まい」のようなものであるということです。

 私は各地を転々としてきたからか・・・パウロが言わんとしていることがスッと入ってきます。というのも、私はどこに住んでいても、そこには住みやすさもあり、同時に、住みにくさもあると感じるからです。完璧な場所や環境はないと思っています。「永遠の家」が私たちの本当の住家だとパウロは言います・・・それに対して「アーメン」とうなずくのです。とは言え、たとえ今の「幕屋」が仮住まいであったとしても、それを、より多くの人たちがよりどころと居場所と呼べる環境に作り上げていくことはできます。そして、それは私たちの教会に託されている宣教のミッションであると言えるでしょう。私たちの教会が、様々な困難を通らされているお一人お一人のよりどころと居場所となっていければと思わされるのです。救いの完成を望みつつ。

(西本詩生)

 

≪祈りのリクエスト≫

①教会の伝道の働き・教会財政のために。

②バプテスマ・入会準備中の方々。

③入院/療養中/高齢で来られない方々。

④誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤主日礼拝(石橋大輔牧師)

⑥「聖書を学び合う会」の活動のため。

⑦青少年キャンプのため(金~土)。

⑧ひかり幼稚園の働きのため。

⑨弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑩各神学校と神学生のため。

⑪道内の教会(無牧師の苫小牧)、ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]のため。

⑫日本と世界の平和のため(ウクライナとロシア、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑬困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。

 

≪私の祈りのリクエスト≫