『 共に福音にあずかるために 』

詩篇66:1

コリント人への第一の手紙9:19~27

2024年4月28日(日)

 

子どもメッセージ

  このような物語を耳にしたことがあると思います。それまでずっと大都会で暮らていた小学生が、初めて地方に引っ越すことになりました。その子は、それまで、大都会以外のところに暮らすことなど考えたこともありませんでした。本音を言えば、「地方に何のいいことがあるんだろう?地方暮らしなんか嫌だなぁ」と勝手に思い込んでいました。いざ引っ越しをすると、近所の子どもたちに誘われ一緒に遊ぶようになりました。最初は大都会の自慢ばかりしていたものの、近所の子どもたちと山や川の自然の中で自由奔放に遊ぶようになり、そこでの暮らしの良さを知るようになりました。私はこのようなお話を小学校の授業の中で耳にし、深く納得したことを思い出します。担任の先生が言わんとしたことは、どんなところでも、どんな人の間でも、そこには必ず「良さ」があるのではないか?ということだったと思います。だから、どれがいいとか、どれが悪いとか、人や事を比べるよりも、それぞれの「良さ」に注目してみないか?ということでした。

小学生の時にそのお話を聞いて、20年弱が経った時のことです。私は30歳手前でアフリカのマラウイという国で、2年間ボランティアをすることになりました(青年海外協力隊員)。マラウイという国は、日本から見れば地球のまるっきり反対側にあると言っていいほど遠いところにあります。飛行機を使っても丸1日半かかります。しかも、僕が住んだ町は、マラウイの中の地方の小さな小さな町でした。飛行機でマラウイの一番大きな町に辿り着いても、またさらにそこから車で一日半はかかるところでした。つまり、日本から旅立って、丸三日間移動して、やっとたどり着ける町に僕は住むことになったのです。それまで僕は東京という大都会に住んでいましたが・・・その大都会から最も遠いと言ってもおかしくない、世界のまるっきり反対側にある小さな小さな町に住むようになったのです。

マラウイに行く直前に撮ったパスポート写真がこれです。自分で言うのも恥ずかしいですが、“ド”がつくほど真面目そうな顔ですよね(笑)。この真面目そうな堅い表情が、マラウイで過ごすことで、どう変わっていくのでしょう・・・。

マラウイという国は、戦争が起きていない国の中では、最も貧しい国の一つと言われています。マラウイで生まれた人が、何歳まで生きれるかというと、平均で45歳であると言われていました。日本では女性が87歳、男性が81歳と言われていますので、うんでいの差です。それだけ、マラウイの人々の大半の生活は厳しく、病院で受けられる医療は不十分であると言わざるを得ません。

僕はどのような仕事をしたかというと、その町(県)の農業事務所で働きました。農家さんたちが一生懸命作るものを、もっと高く売れるようにお手伝いをする仕事でした(付加価値向上促進)。ですので、僕は農家さんと一緒に仕事をすることになりました。一度も畑を耕したことがない大都会育ちの僕が、農家さんたちと仕事をするのですから、問題が起きないほうがおかしいのです。

マラウイでの暮らしは、生活するにしても、仕事をするにしても、何をするにしても、今まで慣れていたことと全く違いました。例えば、会議を開こうとしても、時間通りに始まるということはまずありませんでした。2時間遅れでの開始は、珍しいことではありませんでした。10人集まることが約束でも、5人集まればいいほうでした。このような状況の中で直面したのは「何も思うように進まない」という大問題でした。それがしばらく続くと、「相手は何も分かっていない」という不満が日に日に大きくなりました。仕事仲間を見下すつもりはありませんでしたが、結果的にそうなってしまったのです。

そのような悩みを抱える中、ある先輩が勧めてくれたのは、農家さんの家に泊まることでした。一番仲良くしていた農家さんに泊まらせてくれないかと頼んだところ、何も躊躇せずにこころよく受け入れてくれました。結局、彼と彼の家に住む家族8人と1週間過ごすことになりました。そこでの滞在は、びっくり仰天の連続でした。たとえば、夜雨が降れば、雨漏りがひどすぎて、横になって寝れないのです。雨が止むまで、家の中で傘替わりになるようなものを頭にかぶせて何時間も過ごしました。雨が毎日降る時期は、まともに眠れないのが農家さんの日常だと分かったのです。普段から予期せぬことが起こるので、会議に出ること自体が奇跡のようなことであることが分かったのです。

農家さんの日常に目線を合わせる努力・・・何か思わぬことが起きた時には、それに至るまでの事を分かろうとすること・・・毎回このようなことを完璧にできませんでしたが、これらを取り入れることで、仕事がものすごく楽しくなりました。

僕の人生の中で、1週間マラウイの農家さんの家で生活した体験は、今でもとても大切なことを教えてくれています。相手の目線に合わせようとすること・・・何か思わぬことが起きた時には、それに至るまでの事を分かろうとすること・・・一緒に次の一歩を見出そうとすること・・・それは簡単なことではないのでしょうが、そこでしか得られない楽しさがあります。お互い全然違うにも関わらず、一緒に体験できてよかったなぁと思える楽しさです。

結局僕はマラウイで2年半その仕事をしましたが、ちょうど2年ぐらい経った時に、パスポートを更新しなくてはいけませんでしたので、その時の写真がこれです。先ほど紹介した写真との違いがあるかどうかに関しては、皆さんの判断にお任せしますが、僕から言わせれば、大きく成長させていただいた2年半でした。そして、それは神さまの助けがなければできなかっただろうなと、つくづく思わされるのです。

 

共に福音にあずかるため

 「わたしは、すべての人に対して自由であるが・・・自ら進んですべての人の奴隷になった。」「奴隷」。パウロは何度もこの言葉を使って自己紹介をしています。例えばローマ書1章1節で「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロ」と語っています。パウロは徹底して「私はイエス・キリストのものであり、イエス・キリストに仕えて生きる」という思いを持っていました。そしてパウロは自分の生き方として、ユダヤ人に対してはユダヤ人が大切にする律法を一点も欠けることなく重んじるように生き、律法を知らないギリシャ人には、ギリシャ人の生き方に合わせるように生き、弱い人には自分の弱さを隠さずさらけ出し、あらゆる人にそのように仕えてきたというのです。地に足がついていなく、定まらない生き方だと思われてもおかしくないのでしょうが、パウロはこの生き方をして、その目標点はいつも一緒でした。「その人を得るため」「救うため」だと言います。なぜそこまでするのでしょうか。その理由が23節にあります。「わたしも共に福音にあずかるため」です。今日のパウロの言葉の中心はここにあると言えるでしょう。共に福音にあずかることです。

 そもそもここで言う福音とは何でしょう。ヒントは・・・皆さんの目の前にあります。私たちはここ数年、「神われらと共にいます」を中期テーマとしてかかげてきました。「人生山あり谷あり。けれども・・・どんなことがあろうとも必ず神さまが私たちと共におられるのだから、大丈夫なんだ」ということです。そして、ここで注目するに値するのはもう一つあります。福音とは、ひとりが受けて、そのひとりで喜ぶものではなく、共にあずかるものであるということです。英語の聖書ですと、この「あずかる」を「share」と訳しています。受けた福音を、自分のところに止めるのではなく、それを受け渡し、自分もまた受ける・・・循環していくというイメージでしょうか。共にあずかることで、福音は福音となると言うのです。ここで出てくる「共に」をさらに厳密に訳せば「助け合いながら共に行動する」を意味します。福音は、ひとりで喜ぶものではなく、共にあずかり、喜びの知らせを共に喜び合って、互いに助け合いながら、共に行動するものです。ここにキリスト教会の目指すゴールがあります。

 コリントの町では、古代ギリシャの四大競技会の一つであったイストミア大競技会が隔年で開催されていました。走ることを競う競技にたとえて、パウロはキリストの教会の目指すところを指し示しています。パウロはここでチャンピオンになれと言っているのではなく、共に、目標とするゴールを目指そうではないかと言っているのでしょう。そしてパウロは自分にもそれを言い聞かせて「自分は失格者になるかも知れない」と語ります。失格者とは、ゴールを見失ってしまうことです。キリスト教会が目指すところは、個人の救いや、個人の栄光でもなく、共に福音にあずかるところにあります。喜びの知らせを喜び合って、互いに助け合いながら、共に行動することです。それがキリストの教会のゴールではないか・・・とパウロは説得するのです。

 

異質でありながらも、共に⇒ここに神さまの御業があるのでは

 子どもメッセージで取り上げた私の体験は、それからの私の人生に大きな印象を与えたと先ほど言いました。そもそもなぜそこまでの深い印象を受けたかを考えた時に、お互い人間であるという点を除けば、極端に異質な両者であったということ・・・ここに何か理由があるのではと思うようになりました。つまり、ほとんど同じような人・・・同質の人が何かを一緒にすることは、ある意味自然だと思います。何も頑張らなくても、助けがなくてもできることなのかもしれません。けれども、全く異質な両者が、共に歩もうとすること、分かり合おうとすること・・・そこには大いなる助け・・・神さまの御業が顕されなければ、起こらないのではと考えるのです。

 コリント教会に集められた人々は様々な人であったと思います。全く違った人たちが主イエスの復活した日曜日に集まり、神さまを礼拝し、食卓を共に囲み、主の晩餐にあずかりました・・・少なくともパウロがまだコリントにいた時にはそのような教会の姿でした。けれども、パウロがコリントを去って間もないうちに、教会は次第にバラバラになってしまったということに、パウロは深く悩んだのでした。問題の根っこは、異質な人たちがそこにおられたということではなく、その違いを乗り越えようとする志・・・違いをも超えて関わろうとする志が極端に抜け落ちていたことにありました。

 この延長線で考えると、教会は同じような人の集まりであってはならないのです。異質の集まりであるから、神さまが必要なのです。同質の統一・教会になってはいけないのです。違いを持ち、異質であるそれぞれが、神さまが共におられることを喜び合って、互いに助け合いながら、共に行動すること・・・ここに神さまの御業が起こされるのです。この喜びのゴールを見失わない私たちであり続けたい。我らの神に、共に祈りましょう。

 

 

(牧師・西本詩生)

 

 

 


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