2023年5月31祈祷会


2023年5月31日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会 

 

本日の聖書箇所:使徒行伝9:10~19 (口語訳:新約195頁)

 

 今日登場するパウロ(サウロ)以外の二人の人物、ユダとアナニヤはどういう人物だったのでしょうか?

 サウロはダマスコに行く途中でイエスさまと出会い、目が見えなくなりました。付添人たちは、パウロを、ダマスコのユダという人の家に連れて行きました。このユダが今日の場面の重要人物の一人です(11節)。この時点のユダはクリスチャン迫害に賛同する熱心なユダヤ教徒でした。パウロに泊まる場所を提供したことを考えると、ダマスコのユダヤ人街では尊敬された名士であったと考えられます。ダマスコのキリスト者の活動を危惧して、エルサレムに警告をしたのは、このユダであったかもしれません。

 今日の場面の重要な役割を担う、もう一人の人物はアナニヤという人です。22章12節によると、アナニヤは、イエスさまが神さまであることを信じる前に、敬虔なユダヤ教徒でありました。アナニヤもダマスコのユダヤ人の名士であったと思われます。尊敬されていたユダヤ教徒のアナニヤが、イエス・キリストを信じるようになり、周りのユダヤ教徒からは危険人物とみなされていたことでしょう。ですので、アナニヤは、身の安全のために、なるべく、ユダヤ教徒を避けていたと考えられます(特にポチ2の「ユダ」)。

 さて、今日の場面の内容を見たいと思います。今日の場面で、イエスさまはアナニヤに酷な命令をしました。避けていたユダの家に行って、その中にいるであろうサウロを探し出し、頭に手を置き、目が見えるようにしなさいというのです。サウロは目が見えなくなって、祈っていることも知らされますが、迫害者のままかもしれません。ユダがサウロに代わってアナニヤを縛り上げて投獄するかもしれません。アナニヤはためらい、イエスさまに反論しました、「あの人がエルサレムで、どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしたかについては、多くの人たちから聞いています」と(13節)。アナニヤが親しくしている人たちの中には、迫害されたキリスト者も大勢おられたでしょう。イエスさまの命令に従って、サウロに両手を置いて、サウロを見えるようにさせることは、キリスト者仲間を裏切ることになりかねないことでした。

 「わたし(イエス)の名のために彼(パウロ)がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」(16節)とあるように、イエスさまは、アナニヤの葛藤をわずかながら組み取りました。しかしそれは、一つの問いかけをアナニヤに突き付けることと同時になされました。つまり、次のことを信じるかと問いかけたです。「ユダの家の者たちも、サウロの同行者たちもサウロの祈りにつき合って、わたし(イエス)が神さまであると信じ始めている。サウロも、サウロの周囲の人たちもキリスト者となる。あなたはこれを信じるか。わたしが彼を選んだことを信じるか。」と。端的に言えば、「信ぜよ!」と言われたのです。

 重い荷を負わされ、葛藤したアナニヤは、自分の思いを退けて、イエスさまの思いを尊重しユダの家に行きました。サウロを探すアナニヤをユダが導き、膝を屈め祈り続けるサウロの前に連れて行きます・・そして、アナニヤは両手をサウロの上に置き「サウルよ、あなたはイエスさまの兄弟であり、私たちの兄弟だ」と言いました。この第一声に、どれだけサウロは心打たれたことでしょうか。まだ入信もしていないのに一方的にダマスコ教会への入会がゆるされたからです。同時にエルサレムで投獄したキリスト者である兄弟姉妹たちの顔が思い浮かび、深い罪の念に襲われたことでしょう。イエスさまの赦し、そしてそれに応える兄弟姉妹の愛を知り、サウロの回心を象徴するように、彼の目からうろこのようなものが落ちました。サウロは見えるようになり聖霊に満たされバプテスマを施されました。アナニヤは、サウロだけでなく彼の同行者にもユダやユダの家の人々にもバプテスマを授けたことでしょう。

 使徒行伝を読む時、ともすると、サウロの回心ばっかりが注目されますがアナニヤにも回心が起こりました。アナニヤの考えだけであったら、サウロは教会に受け入られなかったでしょう。アナニヤの狭い考えに対して、イエスさまは鋭い問いかけを投げか、これが、サウロが教会に受け入れられるきっかけとなりました。私たちも、自分の狭い考えに凝り固まっていないでしょうか?神様の未来へと身を委ねる回心の道・・自分だけでなく、周りの人も生かされる道に招かれているのです。      

(西本詩生) 

 

≪祈りのリクエスト≫

①教会の伝道の働き・教会財政のために。

②バプテスマ・入会準備中の方々。

③入院/療養中/高齢で来られない方々。

④誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤ペンテコステ主日礼拝(説教:西本詩生)

⑧弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑨各神学校と神学生のため。

⑩道内(無牧師の苫小牧)ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]のため。

⑪日本と世界の平和のため(ウクライナとロシア、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑫困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。

 

≪私の祈りのリクエスト≫

 


2023年5月24祈祷会


2023年5月24日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会 

 

本日の聖書箇所:ローマ人への手紙8:1~7 (口語訳:新約242頁)

 

 

 1節でパウロはこのように言います、「今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」。この短い文書に、パウロの福音理解が凝縮されていると言えるでしょう。パウロご自身も認めると思いますが、パウロは、誰から見ても「罪に定められるべき」人物でした。なぜなら、かつてのパウロ(サウロ)は、教会の信徒たちを迫害し、癒えない傷を生み出した人物であったからです。パウロは、今日の箇所の直前(7章24節)で嘆いています、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」。そして続いて、25節で、「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。」と言い、罪と、その結果のみじめさから、「主イエス・キリスト」のゆえに、救われたことを喜び、感謝しているのです。

 7章において、パウロは「わたし」という主語を頻繁に使いますが、8章に入って「あなた」という主語に移行しています。つまり、「わたし」パウロが、みじめな罪のありようから救われ、今度は教会のために仕える者として用いられたのだから、「あたた」も「罪と死との法則から解放された」(2節後半)と、自らの証しを背景に、熱く訴えているのです。

 ある人が今日の箇所のことをこのように説明しました。「パウロが言わんとしていることは、『私は誰であるか』ということです。」。つまり、私たち一人一人は、1節にあるように「キリスト・イエスにある者」なのです。それは、「私は私」・・「私は私のものだ」という、独立心と自立心に基づいた人間観とは全く逆で、神さまとの愛の関係の中で生かされていることを告白しているものなのです。つまり、イエスさまのゆえに、神さまに捕らえられ、愛され、喜ばれている「私」であり、「あなた」であるのです。

 私たちは小さい時から、自らのアイデンティティを、様々な属性に見出します。たとえば、自己紹介をするときに、「〇〇学校出身の」・・「〇〇会社の」・・「日本から来た」・・という背景を説明しながらします。けれども、そのような属性は必ずしも、人を生かすものではありません。かつての戦争を思えば、他人のものまで自分のものにしてしまう属性が生まれてしまうこともあるわけです。人が作る属性は、必ず終わりがあり、内輪を保つために、排除される人もいて、亀裂や分断が生じるのです。けれども、パウロが「キリスト・イエスにある者」と告白したとき、それは、神さまに属することを指し、それは神さまが一方的にくださるプレゼントとしての属性なのです。何かを頑張って達成したうえで、獲得する属性ではありません。見た目や、年齢、性格の良し悪しで差がつくものでもありません。言うまでもなく、神さまご自身が永遠でありますので、「キリスト・イエスにある」属性は消えることはありません。本当の意味で私とあなたを生かす属性は神さまにある・・このことをパウロは知っていたのです。

 2節以降、肉に生きることと、霊に生きることが対象として語られています。今までの流れの説明で言えば、肉に生きることとは、神さまから独立して、自分の頑張りで生きようとすることです。それは、必ず行き詰ると、パウロは、自らの経験のこととして言うでしょう。そして、その対象として、霊に生きることが促されています。神さまに愛され、喜ばれているものとして、今度はその愛と喜びを、神さまにかえし、人々と分かち合っていく生きざまなのです。神さまに捕らえられた「わたし」と「あなた」として生きていこうではありませんか。      (西本詩生) 

 

≪祈りのリクエスト≫

①教会の伝道の働き・教会財政のために。

②バプテスマ・入会準備中の方々。

③入院/療養中/高齢で来られない方々。

④誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤ペンテコステ主日礼拝(説教:西本詩生)

⑧弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑨各神学校と神学生のため。

⑩道内(無牧師の苫小牧)ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]のため。

⑪日本と世界の平和のため(ウクライナとロシア、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑫困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。

 

≪私の祈りのリクエスト≫

 


2023年5月17祈祷会


2023年5月17日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会 

 

本日の聖書箇所:コリント人への第一の手紙6:12~20 (口語訳:新約262頁)

 

 

【「神の栄光を現す」とは】

 (起)―概略―本日の奨励箇所は聖書日課からになります。本書は使徒パウロが紀元56年か57年の春頃、エペソから書き送ったもののようです。コリントはアカヤ州の繁華な産業都市で、東西に海を控えて、航海交通の要路にあり、人々はぜいたくを窮め、罪悪が横行し、その付近に1000人以上の醜業婦(売春婦)がいたと言われ、非常に淫蕩な町であったと言われています。パウロがこの地から書き送ったローマ人への手紙の第1章に描写されている罪悪の背景は、この地のことでした。

 (承)―本書の背景―パウロはこの地に1年半ほど伝道して教会を建設しています。のちにアポロもこの地に伝道し、またユダヤ主義の教師たちがパウロの使徒権を拒んで、ペテロを賞揚したため、教会内に分裂が起り、教会の秩序は乱れ、信者の中に罪を犯す者が起ったようです。それゆえにパウロは、この教会の紛乱を憂え、本書を送る前に自らコリントに行き、また手紙を送って乱れを戒めました。今日の聖書の箇所にはこのような背景があります。 

 (転)―証し―ところで私が40代の頃、衝撃的な出来事がありました。20代の頃に通っていました教会の牧師先生が起こしたスキャンダルのことです。その牧師先生は日本でも大変有名な、そして著書もあり有能な説教者でもありました。その先生が信徒の女性と不適切な関係にあり、また金銭的にも献金とは別に個人的にお金をいただいているような出来事でした。そのことが教会員にも発覚し事態を重く受け止めたその教団の理事長がカウンセリングを行うことになりました。女性信徒との不適切な関係、不品行を耳にした理事長はその後の牧師の働きを鑑み二つの選択肢を提示しました。一つは「悔い改めること」そしてもう一つの提案は「所属の教団から出ていくこと」の二択でした。そして驚いたことに問題を起こした牧師は悔い改めるという選択肢を選ばす何と教団を出ていくという選択をしました。私の一つ目の衝撃はまずはそのことです。悔い改めを拒否したということです。

そして二つ目の衝撃は北海道を離れその牧師は関東圏に弟子を引きつれて単立の教会をいくつもつくりました。しかし神様の前に悔い改めないという事は罪の連鎖を次々と生み出すようです。その後の牧師は関東圏でも女性に猥褻な、卑劣なことを行い、被害者から訴えられています。そしてその結果、牧師の資格は現在停止状態にあります。これが私の40代の時に起きた(聞いた)衝撃的な出来事でした。 

 (結)―本日のお勧め―パウロは今日の箇所で我々は「聖霊の宮」と言っています。神が住むところ、宿るところと言っています。私達は「神の栄光を現す器」なのです。

ちなみに今日の聖書箇所であります12節は「性的な罪は絶対にいけません」、18節は「性的な罪から離れなさい」とリビングバイブルでは訳され我々に警告を与えています。

結局、神の栄光を現すとはどういうことなのでしょうか。

 神の語られている御言葉に対して忠実に、誠実にというだけではなく神から受けた恵みをしっかりとお互いに証しし合うということが大切かと思います。このような意味では教会が新たに取り組んでいる「信徒説教」は昨年連合の信徒セミナーでも学びましたし正に神の栄光を現す一端と言えるのではないでしょうか。お互いに御言葉を語る者になりましょう!             

(橋本修一) 

 

≪祈りのリクエスト≫

①教会の伝道の働き・教会財政のために。

②バプテスマ・入会準備中の方々。

③入院/療養中/高齢で来られない方々。

④誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤主日礼拝(説教:小西陽祐牧師(元日本基督教団北海教区主事))

⑧弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑨各神学校と神学生のため。

⑩道内(無牧師の苫小牧)ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]のため。

⑪日本と世界の平和のため(ウクライナとロシア、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑫困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。

 

≪私の祈りのリクエスト≫

 


2023年5月10祈祷会


2023年5月10日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会 

 

本日の聖書箇所:コリント人への第二の手紙5:16~21 (口語訳:新約283頁)

 

 

 パウロは17節でこのように言います、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」。クリスチャンとして生きることを決心する時、「新しく歩み出す」ことを志として持つと思います。けれども、いくら歯を食いしばっても、理想に沿うように進めないという葛藤を抱くのではないでしょうか。そうだとしても、もしも今日の箇所を、「努力して新しい人になろう!」というメッセージとして受け止めるとしたら、それはパウロが意図したことではないと思います。パウロは命令調で語るのは17節の「見よ!」という単語と、20節の「(神の和解を)受けよ」だけです。「頑張って」とか、「力を込めて」とか、「自らを戒めて」とは言いません。全て神さま発信のこととしてパウロは語ります。

 わたしたちの目線を何に向けさせようと、パウロは促すのでしょうか?16節で、パウロは「肉」について述べています。これは「人間的」と訳されることもあります。肉に留まる視点・・人間的な事柄に留まる視点の対象として、17節でパウロはこのように言います、「見よ、すべてが新しくなった」と。そして続いて18節では「しかし、すべてこれらの事(すべてが新しくなった事柄)は、神から出ている。」。わざわざ「神から出ている」と言っていますので、その裏を返せば、私たちからは出ていなく・・出ることもないということです。パウロが「見よ!」と言ったのは、私たちの人間的な欠点や、努力の足りなさに対してではなく、神さまの新しい出来事に対してです。その新しい出来事の内容は18節と19節で語られています、「神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させた」・・「神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれ(世)に負わせることをしなかった」。つまり、神さまと一緒に生きる私たちにしてくださった・・わたしたちだけでなく、この世界をまるごと神さまと一緒に生きるものとしたということです。そしてそれは、十字架と復活でなされたことだとパウロは言います(15節)。

 神さまにある和解の出来事を見る上で、パウロは、私たちに託された働きについても語っています。それは18節の「和解の務めをわたしたちに授けた」と19節の「和解の福音をゆだねられた」という表現に込められているものです。関係の分裂や亀裂が生じているところに、修復を求めていくことです。それは、神さまと私たちとの関係も含めますが、人と人、人と自然世界との関係も含まれます。

 国内紛争で、民族の間で虐殺が起きたルワンダで、和解のために努めている佐々木和之さんが、先日ある雑誌でコラムを掲載していました。その内容を全て紹介できませんが、今日の聖句にもつながる二つの点を共有したいと思います。

① 佐々木さんは、「赦さなくてはいけない」と思い込む危険性を懸念して、このように言います。「本当の赦しとは、他人の要望や強制によって生まれるものではなく、自分のペースで生み出されなければならない。赦しは神の贈り物であり、重荷となるべきものではない」。パウロが18節で、和解から生じる新しさは「神から出ている」と言う通りです。

② 佐々木さんの働きについて彼はこう言います「(ルワンダでの)和解とは、社会的に形づくられてきた『われら』から自らを解放し、敵である『やつら』と出会い直し、対立構造を解きほぐし、『同じ人間だ』との地平に立とうとする困難なプロセスである」。パウロは16節で「だれをも肉によって知ることはすまい」と言います。つまり、誰かを、人間ではない相手と見なさないこと・・逆に、その相手のためにも、キリストが「死んでよみがえった」(15節)ことを見ることです。「同じ人間」として、共通点を見出していくことが和解の鍵となるのでしょう。そして、パウロに言わせれば、その共通点は、十字架と復活に目線を向けることにおいて生じるのです。すべての人のためになされた愛の業がそこにあるのです。    

(西本詩生) 

 

≪祈りのリクエスト≫

①教会の伝道の働き・教会財政のために。

②バプテスマ・入会準備中の方々。

③入院/療養中/高齢で来られない方々。

④誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤教会創立70周年記念主日礼拝(説教:石橋牧師)/ 昼食会+教会の歴史の講演会

⑧弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑨各神学校と神学生のため。

⑩道内(無牧師の苫小牧)ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]のため。

⑪日本と世界の平和のため(ウクライナとロシア、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑫困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。

 

≪私の祈りのリクエスト≫