2023年月26祈祷会


2023年4月26日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会 

 

本日の聖書箇所:詩篇14:1~7 (口語訳:旧約758頁)

 

 

 【「自立」って何だろう?】1節に、「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う」とあります。この詩人曰く、「愚かな者」は、自らの人生に働きかける神さまを認めないいために、行動が乱れ、人生への展望に対する焦点が合わなくなってしまいます。ここに描かれているのは、「私は今日も、神さまに生かさている」という、信仰の軸が抜け落ちている生き方と言えるでしょう。裏を返せば、「神さまがいなくても、生きていける・・ひとりで生きる」・・「この人生はわたしのものだ・・わたしが道筋を選びとっていく」という、ある種の自立心に基づいた主張です。その結果、「愚かな者」の行動は腐敗し、何の善いことも生み出すことがなく(1、3節)、次第には弱い立場に置かれている人々をむさぼることにつながります(4節)。神さまが尊ばれない時、生命は破滅に向かい、進み行く道筋が閉ざされ、最終的には、恐れに駆られる日々に陥ります(5節)。なぜなら、自分ひとりで切り開いていく人生だと考えるとしたら、それは、神さまの支え・守り・導きを見ない日々であり、この意味で、常に危険にさらされる人生だからです。その道を歩む「愚かな者」は、自分自身の努力以外に生きるための支えがなく、それらの努力は残念ながら十分に達することはない・・と詩人は言うのです。このように、詩人は、「神さまは必要ない・・自分はひとりだ」と言い張る「愚かな者」への戒めを語ります。

 詩人は、絶望に行きつく「愚かな者」について語りますが、同時にもう一つの真実を知っています。この世界は、なおも、神さまの世界であることです。神さまは今も天から全てを治め(2節)、何事においても神さまにたずね求める「賢い者」を求めておられるお方です(2節)。神さまは今でも「共におられる」お方なのです(5節)。6節は、重要なことに触れています。この詩で「主」(ヤーウェイ)という神さまの固有名詞が最初に登場するのは2節で、そこでは、この世界は主によって治められていることが告白されています。「主」(ヤーウェイ)が次に登場するのが6節ですが、ここで、主の支配の内実が示されています。神さまがおられることの最たるしるしは、神さまが貧しい人々を守り抜くということです。いくら「愚かな者」がずる賢く人生を送り、自分のために富と力を積み上げ、それゆえに多くが涙と痛みを負う日々であっても・・それが、神さまをあきらめさせることではない・・神さまはいつまでも貧しい人々の居場所となり、かばい続ける・・と詩人は断言しています。

 詩篇14編は、高ぶる私たちへの警告であると言えるでしょう。そもそも「高ぶる」こととは何でしょう?この詩人に言わせれば、高ぶることとは、神さまよりも優れた方法で、自分の人生を切り開いていけると思いこむこと・・自立することだと言うでしょう。それは「わたし・・わたし」という主語しかない世界観です。対照的な生き方はどのように考えればいいのでしょう。「わたし・・わたし」だけでなく、「神さま」という主語を取り入れていくことです。「神さまに生かされている」・・「神さまは導く」・・「神さまは共にいる」という生き方です。「神さま」が入り込むことで、おのずと、7節で言う喜びと楽しみが沸いてくる・・このことを覚えていきたいと思わされた詩篇14編でした。   

(西本詩生) 

 

≪祈りのリクエスト≫

①教会の伝道の働き・教会財政のために。

②バプテスマ・入会準備中の方々。

③入院/療養中/高齢で来られない方々。

④誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤主日礼拝(証礼拝)(浦瀬佑司さん、サラ・チャベスさん)

⑧弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑨各神学校と神学生のため。

⑩道内(無牧師の苫小牧)ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]のため。

⑪日本と世界の平和のため(ウクライナとロシア、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑫困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。

 

≪私の祈りのリクエスト≫

 


2023年月19祈祷会


2023年4月19日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会 

 

本日の聖書箇所:マルコによる福音書3:1~6 (口語訳:新約54頁)

 

 

 この箇所を今の自分が客観的に見るとパリサイ人の自分本位な考え方や頑なな心に気づくことができるし、イエス様が『わざわざ』安息日に皆の前で人を癒されたことへのメッセージにも気づくことができます。片手のなえた人の癒しのわざを見て、共に喜ぶし、パリサイ人から非難されるのを承知で癒してくれるイエス様を信じ、これこそ本来の安息日=神様を礼拝する日だと言えます。

 ただ、自分が当時のパリサイ人なら、瞬時に「イエス様の言う通りです!」と応えられたか?と疑問に思います。自分たちが一生懸命守ってきたものをなぜイエス様は否定するのか…。わざわざ安息日にみんなの前で癒しのわざをやらなくてもいいじゃないか。そのルールを守って人々が生活しているのになんで輪を乱すことをするのか。自分たちがずっと守って来たことこそ正しい。(と思いたい)と感じてしまうかもしれません。自分たちが守っている掟を乱すイエス様にこの輪の中から離れて欲しいと思ってしまうかもしれません。そのルール自体が、人の作り出したもので、神様の本意からズレてしまっていると客観的に見ると判断がつくのに、只中に置かれると見えなくなってしまう。(見ないようにしてしまう)

 私も、決まり事の輪を乱す事や、今までと違う変化に本当に弱いし、自分が心地いいと感じている環境を奪われるのでは?と焦りさえ感じることがあります。目の前で奇跡の癒しのわざを目の当たりにしても、癒された人が喜んでいても、それを受け入れることができなかったパリサイ人…

 自分は神様が目の前で起こされる出来事に感謝できているだろうか。自分の経験やものさしで測って、神様からのメッセージを見逃してないか。自分の居心地の良さを優先して他者を排除してないだろうか。自分の考え方に固執して神様の声に耳を塞いでいないか。パリサイ人のように頑なな心にならず、素直に神様に立ち帰れる者でいたいと思わされました。            

(石橋 縁) 

 

≪祈りのリクエスト≫

①教会の伝道の働き・教会財政のために。

②バプテスマ・入会準備中の方々。

③入院/療養中/高齢で来られない方々。

④誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤主日礼拝(説教:西本詩生牧師)。

⑥「聖書を学び合う会」の活動のため。

⑦ひかり幼稚園の働きのため。

⑧弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑨各神学校と神学生のため。

⑩道内(無牧師の苫小牧)ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]のため。

⑪日本と世界の平和のため(ウクライナとロシア、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑫困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。

 

≪私の祈りのリクエスト≫

 


2023年月12祈祷会


2023年4月12日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会 

 

本日の聖書箇所:ピリピ人への手紙2:1~11 (口語訳:新約309頁)

 

 フィリピ書全体を見渡すと、フィリピの教会内部に、大きな問題があったように感じられません。パウロはピリピ教会の信徒たちをほめまくって、励ましていることが手紙を通して目立ちます。しかし、今日の箇所からは、教会の中に小さなさざ波のような対立があったように感じられます。ピリピ教会の信徒とパウロとの関係は良好でしたが、教会内のそれぞれの関係はどうだったのでしょう?3節の「党派心」(利己心)や「虚栄心」(根拠ない空っぽなプライド)という描写が、教会内のバラバラ感を物語っていたのでしょう。せっかくパウロとの関係は良好で、暖かい心が行き交う一致があるのに、教会内部でもそうあってほしい・・心を痛めながらパウロはピリピ教会の一人ひとりに訴えたのです。「へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」(3節後半~4節)。

 利己心や虚栄心がある状態でしたが、相手のことを考えなさい・・とパウロは勧めます。4節の「他人のことを考えなさい」の「考えなさい」は他の訳では「注意を払う」・「気にかける」・「顧みる」とあります。パウロが好む表現で、他の手紙でも頻繁に使われています。例えばここでも・・「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」(二コリ4:18)。他者に目を注ぎなさいとパウロは訴えたのです。

 確かにパウロは、他者に目を注ぐように勧めましたが・・でもそれよりも増して、一人一人の眼差しをキリストに向けさせました。そのために、原始教会で歌われていた讃美歌を6~11節を紹介しました。通称“キリスト賛歌”と呼びます。8節にはこのようにあります。「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」。下線の部分は、普段歌われていた讃美歌にはなかった言葉であったと考えられます。パウロが独自で導入したのです。ピリピ教会の人たちがパウロの手紙を読み上げた時、この導入された部分を読み上げ、「あれ?」と思ったはずです。パウロはおのおのの目線をキリストに向けましたが、それは特に「十字架の死」に向けさせたのです。教会はイエスさまの「十字架の死」において結ばれると確信していたからです。

 日曜日にTさんの信仰告白を聴き、バプテスマ式を皆で喜びました。準備の段階で、彼女の経験から紡がれた信仰告白を聴かせていただきましたが、それはイエスさまの十字架を指し示す言葉だなぁと強く思わされながら、心打たれていました。心打たれたのは私だけではないでしょう・・日曜日に「十字架の死」の恵みを一人一人が感じたのではないでしょうか?パウロが言わんとしていること・・教会は十字架の死において結ばれること・・本当にそうだなぁと思います。Tさんを通してなされた神さまのみ業に圧倒され、讃美と感謝が湧き上がってきます。  

(西本詩生)

 

≪祈りのリクエスト≫

①教会の伝道の働き・教会財政のために。

②バプテスマ・入会準備中の方々。

③入院/療養中/高齢で来られない方々。

④誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤主日礼拝(説教:西本詩生牧師)。

⑥「聖書を学び合う会」の活動のため。

⑦ひかり幼稚園の働きのため。今日から2023年度の歩みが本格的にはじまります。

⑧弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑨各神学校と神学生のため。

⑩道内(無牧師の苫小牧)ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]のため。

⑪日本と世界の平和のため(ウクライナとロシア、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑫困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。

 

≪私の祈りのリクエスト≫

 


2023年月5祈祷会


2023年4月5日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会 

 

本日の聖書箇所:イザヤ書52:13~53:12 (口語訳:新約1021頁)

 

本日の聖書日課の箇所は使徒行伝8:26~40となっていますが、今日は使徒行伝ではなく、その箇所で取り上げられている“苦難の僕”(イザヤ書)をじっくり噛みしめたいと思います。
    52:13見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。14多くの人が彼に驚いたように――彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである――15彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。

神さまの僕・・イエスさまは、十字架上で、「栄え」とは程遠い姿となりました。みじめでみすぼらしい姿で殺害されました。けれども、神さまは最初に約束します・・そのどん底の姿では終わらせず、「ひじょうに高くあげられる」と語ります。
    53:1だれがわれわれの聞いたことを/信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。

神さまからも・・人々からも呪われたお方が人類の救い主であることは、聖霊の働きなくして、信じられることではないのでしょう。み言葉は問いかけてきます「主の腕は、誰に顕れたのか?」。
    2彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。3彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

自らの十字架でさえ担ぐことができないほどボロボロになって、最期までののしられ、罵倒されたイエスさまの姿が浮かんできます。「われわれも彼を尊ばなかった」というみ言葉と、讃美歌「あなたもそこにいたのか」(讃美歌21、306番)が重なります。
    4まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。5しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。6われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。

われわれの不義によって苦しまれたのは、私たちのための赦しを繰り返し祈られた十字架の主イエスであった・・そこで割かれた身体と流された血潮によって、私たちはいやされ、本当の命を得たのです。
    7彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。8彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。9彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。10aしかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。

主イエスは私たちの罪のために・・罪のゆえに裁かれました。砕かれることは神さまのみ旨であったのです。自らのいのちを捨ててまで、悪しき私たちを追いかけ、伴われる神さまの姿がここにあります。何も悪いことをしていないお方が「悪しき者」となったのです。
    10b彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。11彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。12それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に/物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。

罪人でありながらも、なおよし(義)とされるのは主イエスが十字架で私たちの罪を負われたからです。私たちが本当の命を得るためにです。

(西本詩生)

ー--

「讃美歌21」 306番 

「あなたもそこにいたのか」

 

讃美歌歌詞

 

1 あなたもそこにいたのか、      

  主が十字架についたとき。         

  ああ、いま思いだすと            

  深い深い罪に                

  わたしはふるえてくる。          

 

2 あなたもそこにいたのか、      

  主がくぎでうたれたとき。          

  ああ、いま思いだすと            

  深い深い罪に                

  わたしはふるえてくる。          

 

3 あなたもそこにいたのか、

  主が槍でさされたとき。

  ああ、いま思いだすと

  深い深い罪に              

  わたしはふるえてくる。

 

4 あなたもそこにいたのか、

  主を墓におさめたとき。

  ああ、いま思いだすと

  深い深い罪に

  わたしはふるえてくる。

 

5 あなたもそこにいたのか

  主がよみがえられたとき

  ああ、いま思いだすと

  深い深い愛に

  わたしはふるえてくる

 

ー--

 

≪祈りのリクエスト≫

①教会の伝道の働き・教会財政のために。

②バプテスマ(4月9日)・入会準備中の方々。

③入院/療養中/高齢で来られない方々。

④誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤主日礼拝(説教:石橋牧師牧師)。

⑥「聖書を学び合う会」の活動のため。

⑦ひかり幼稚園の働きのため。4月からの石橋園長の働きのため。

⑧弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑨各神学校と神学生のため。

⑩道内(無牧師の苫小牧)ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]のため。

⑪日本と世界の平和のため(ウクライナとロシア、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑫困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。

⑬明日まで行われている連合の青少年修養会のために。