2023年月29祈祷会


2023年3月29日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会 

 

本日の聖書箇所:エレミヤ書31:31~34 (口語訳:旧約1100頁)

 

「新しい契約」という言葉を最初に使ったのは、旧約聖書の預言者エレミヤでした。そして、それから時を経て、イエスさまの復活後に初代の教会の人たちは、この「新しい契約(新約)」が、イエス・キリストの生涯と死において成就したと信じたのです。そのように、旧約聖書と新約聖書に、一本のつながりがはっきりと示されることで、今日の箇所は、『旧約聖書』と『新約聖書』とを結ぶ“架け橋”であると言われます。

 なお、聖書の「契約」とは、私たちが一般的に理解し、具体的に結ぶ「契約」とは、明らかに違っています。この「契約」について、神さまは「私の契約」と呼びますが、イスラエルの人々は「私たちの契約」とは呼びません。それは、聖書の契約は一般の契約とは違っているからです。例えば、わたしたちは、これだけの労働をしたから、その対価としてのこれだけの賃金を支払うというような契約をイメージします。でも、神さまとの契約は、神さまからの一方的救済を忘れないために、神さまの手によって一方的に与えられるのです。

 イエスさまが語られたぶどう園のたとえにあるように、ぶどう園の主人は、全員に1デナリを支払います。それぞれが、どれだけの労働をなしたから、その分に応じて・・・というのではないのです。主人から一方的に受けた恵みを忘れないこと、その恵みに対して誠実であり続けることが、労働者たちには求められるのです。ただ、労働者たちが、主人に何を返すかは自由です。神さまは、人々を強権的に支配しようとはなさらないのです。神さまは、その自由の下で、わたしたちが自発的にその恵みに応答することを求めておられるのです。

 33節には、「すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす」と記されています。神さまは、律法を一人ひとりの心の中に与えたとエレミヤは言うのです。神さまが人々の中に住み、神さまの言葉が直接人々の心の中に与えられているのだから、書かれた文字としての神の言葉や、建物としての神殿は不要だと言うのです。それよりも、内心の自由こそが大切なのだと。

 33節には続けて、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる」と記されます。まず、神さまが人々に属するものとなられ、その愛に応えて人々もまた神さまに属するものとなるのです。新約聖書においても、まずイエスさまが弟子の足を洗われたことで、弟子たちは愛するということを学び、互いに仕え合い、助け合う共同体をつくったのです。

 34節には、「人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる」とあります。教会という交わりにおいては、偉い人が上から教え込むということはそぐわないのです。「主を知っている」と自負する者が、他の人に「主を知れ」と偉そうに語ることも、そうです。そのような“マウント行動”は、教会にはふさわしくないのです。相手を支配しようという言動は、教会には不要なのです。教えるよりも、学ぶとことが大切なのです。小さい者も大きい者も、子どもも大人も、相手が「神の愛を知る者」であることを前提に、相手から学び、互いに愛し合うのです。 

(石橋大輔)

 

≪祈りのリクエスト≫

①教会の伝道の働き・教会財政のために。

②バプテスマ・入会準備中の方々。

③入院/療養中/高齢で来られない方々。

④誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤主日礼拝(説教:西本詩生牧師)。

⑥「聖書を学び合う会」の活動のため。

⑦ひかり幼稚園の働きのため。

⑧弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑨各神学校と神学生のため。

⑩道内(無牧師の苫小牧)ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]のため。

⑪日本と世界の平和のため(ウクライナとロシア、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑫困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。

 


2023年月22祈祷会


2023年3月22日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会 

 

本日の聖書箇所:ルカによる福音書22:24~30 (口語訳:新約128頁)

 

今日は「最後の晩餐」の場面です。十字架の直前に、イエスさまと弟子たちが一緒に囲んだ食卓です。それぞれの記憶に刻まれたあの食卓で、弟子たちは「だれがいちばん偉いだろうか」と争ったのです。

 24節の「偉い」という言葉の直訳は「大きい」です。実際「誰が大いなる者か」という議論ではなく、そのグループの中で、「誰がより大きく思えるか」ということが論点でした。比較の問題です。

 ルカによる福音書が言わんとしている罪の特徴がこの争いに凝縮されていると言えるでしょう。つまり、人は(実際はともかくとして)「横と比較してより大きな者に見られたい」と思っているということです。そして、隣人を自分よりも小さな者に見えるように貶めるべく、器の小さい者同士の争いを起こすことを好むとルカは言わんとしています。

 イエスさまは、25節で「異邦の王たち(皇帝たち)はその民の上に君臨し・・」と語り、29~30節では「わたしの国」について述べます。イエスさまは「神の国の食卓」を見ていましたが、ローマ帝国の食卓との対比を意識していました。ローマ帝国の食卓はどういうものだったのでしょうか。皇帝の食卓は、宴会に着くことができない多くの奴隷たちによって支えられていました。彼ら彼女たちは食卓の給仕をする時だけ登場しますが、決して共に食事をすることは許されません。不平等な扱いです。しかしだからといって不満が爆発するわけでもありません。事実、奴隷たちは皇帝を「恩人」(25節)と呼んでいます。直訳すれば「(自分たちに)善を施す者」です。支配されている人々は、喜んで支配されようとしています。「恩恵をいただいている」と感じているからです。ある種の「錯覚」がここにあると言えるのではないでしょうか。人々を貶める支配が起こっているにも関わらず、その支配に依存する実態です。DVやハラスメントが起きる時、多くの場合、同じ構造があります。沖縄に米軍基地がなければ沖縄は豊かになれないと言われてきましたが、本当にそうなのだろうか・・本当にアメリカのおかげで日本は守られているのか、もう一度冷静に考える必要があります。

 主の食卓は、君主が上座にふんぞりかえって料理を待つというものではありません。食卓の主であるイエスさまが給仕役となる食卓です。当時「神の子」と言えばローマ皇帝のことを意味しました。しかし本当の神の子は、自らを高めるために支配しません。人々の下に立って、僕となり、一人ひとりの足を洗い、飲み物と食べ物を忙しく給仕し、命を配る十字架と復活の主イエスこそ、本当の神の子です。皆のために自らの命を配ったイエスさまが“頂点”ですので、私たちは比較しようがありません。「より大きいのは誰だ」と争うことは、どんぐりの背比べのようなものです。無意味なのです。

 けれども、「より大きな者に見られたい」私たちは、いかに相互に下に立つ交わりをもてるのでしょうか。鍵は無条件の赦しにあるのではないでしょうか。イエスさまはユダを含む弟子たちに「あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた」(28節)と、褒めます。この大いなる褒め言葉は、その後の弟子たちの記憶にどのように残ったのでしょうか。今までの物語でもこれからの物語でも、弟子たちはイエスさまと共に踏みとどまるということはできたのでしょうか?誘惑に負けてイエスさまを引渡し、「あんな人は知らない」と言い張り、器の小さい者同士の争いを繰り返し、主イエスを十字架で捨てて逃げ去る弟子たちでした。それにも関わらず、イエスさまは大いなる肯定を語ります。叱ってもいいのに褒めるのです。できていない子どもに対して、「よくやった!でかした!」と大げさに褒めるわけです。父親の信頼を裏切り、心配を無視し、父親の半分の財産をドブに捨てた放蕩息子を抱きしめる父の姿がここにあります。異次元の愛と赦しです。今一度、この愛と赦しの代価となった十字架のイエスさまの前に留まりたいと思います。  

(西本詩生)

 

≪祈りのリクエスト≫

①教会の伝道の働き・教会財政のために。

②バプテスマ・入会準備中の方々。

③入院/療養中/高齢で来られない方々。

④誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤主日礼拝(説教:西本詩生牧師)。

⑥「聖書を学び合う会」の活動のため。

⑦ひかり幼稚園の働きのため。

⑧弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑨各神学校と神学生のため。

⑩道内(無牧師の苫小牧)ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]のため。

⑪日本と世界の平和のため(ウクライナとロシア、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑫困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。

 


2023年月15祈祷会


2023年3月15日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会 

 

本日の聖書箇所:詩篇118:22~25 (口語訳:旧約853頁)

 

今日の箇所の冒頭に出てくる「家造りらの捨てた石は隅のかしら石となった。これは主のなされた事でわれらの目には驚くべき事である」という言葉は、新約聖書にも度々引用されています。

マタイ21:49では、「家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える」と、イエスさま自身の言葉として語られます。また、ルカも20:17で前半部分のみ引用しています。

使徒行伝4:11では、エルサレムで祭司長や長老たちの尋問に答えたペテロが、「このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。この人による以外に救はない」と、イエスさまこそが主であると告白するために引用しています。

Ⅰペテロ2:7には、「この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には『家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの』また『つまずきの石、妨げの岩』である」という形で紹介されています。手紙の著者はこの言葉を引用する前置きとして、「主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい」と勧めています。

この言葉において、「人には捨てられた」というのは、とても大事なポイントでしょう。詩篇は、イエスさまが生まれる旧約時代の書ですから、「家造りら」とはイスラエルの民を指しており、「捨てた石」とは預言者たちのことを指していると考えられますが、新約聖書に引用されることで、その捨てられた石は、まさに十字架のイエス・キリストを想起させるのです。わたしたちは、イエスさまのことを「人には捨てられた石」として見ているでしょうか。その捨てられた石を、隅の頭石に据えられたのは神さまの御業であり、それは「人の目には驚くべきこと」として捉えているでしょうか。いつの間にか、決して誰も捨てることのない石としてイエスさまをイメージし、自分たちの目にも当然だと思える出来事として神さまの御業を捉えようとしてはいないでしょうか。なぜイエスさまは人々に捨てられ、十字架に磔にされたのか・・・。受難節である今、そのことを問い直したいと思わされています。

また、この詩には、「わたしが悩みのなかから主を呼ぶと、主は答えて、わたしを広い所に置かれた。主がわたしに味方されるので、恐れることはない。人はわたしに何をなし得ようか」や「主に寄り頼むは人にたよるよりも良い。主に寄り頼むはもろもろの君にたよるよりも良い」と、「わたし」がどこまでも主にこそより頼むことで、地上の権威を一切恐れないという心意気が示されています。イエスさまの生涯はまさにその通りでした。そして、イエスさまは十字架に架けられたのです。

宗教改革者として知られるマルチン・ルターは、この詩篇118篇をとても愛していたそうです。彼は、「全てのものの上に立つ自由な主人であって、いかなる人間的権威にも従属しない」と同時に「すべてのものに奉仕するしもべである」ところに、キリスト者の自由を見いだしました。わたしたちの教会はそのように、すべての力と権威に屈することなく、なおかつ、すべての人々に仕える存在として、歩むことができているでしょうか。  

(石橋大輔)

 

 

≪祈りのリクエスト≫

①教会の伝道の働き・教会財政のために。

②バプテスマ・入会準備中の方々。

③入院/療養中/高齢で来られない方々。

④誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤主日礼拝(説教:石橋大輔牧師)。

⑥「聖書を学び合う会」の活動のため。

⑦ひかり幼稚園の働きのため。

⑧弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑨各神学校と神学生のため。

⑩道内(無牧師の苫小牧)ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]のため。

⑪日本と世界の平和のため(ウクライナとロシア、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑫困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。

 


2023年月8祈祷会


2023年3月8日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会 

 

本日の聖書箇所:ルカによる福音書21:5~6 (口語訳:新約126頁)

 

 今日はエルサレム神殿の「見事な石と奉納物」に見蕩れている弟子たちが描かれています。ガリラヤで生活していた弟子たちにとって、神さまが住まわれると信じられていた神殿を訪れることは特別な時であったはずです。しかも、今回はイエスさまと一緒です。しかしながらそのウキウキしていた弟子たちにイエスさまは冷や水をかけます・・「あなたがたはこれらのものをながめているが・・」と。イエスさまはイジワルをしようとしたのでしょうか?そうではないと思います。大事なことを伝えたかったのです。

 弟子たちとイエスさまは同じ神殿を見ていましたが、明らかに違うものを見ていました。今日は「イエスさまが何を見ていたのか」という点を、まず探っていきたいと思います。

 一つの意味では、イエスさまは神殿体制の終わりを見ていました。当時は “清い”人と“汚れた”人に分けられ、結果的に、神さまの救いを求める人たちに礼拝(神との出会い)が閉ざされていました。イエスさまの宣教の特徴の一つは、礼拝から閉ざされていた人々の間で神さまの伴いのメッセージを分かち合ったことだと言えるでしょう。神さまから与えられた本来の使命から逸れた神殿体制がイエス様の目に写っていたと思います。これを危惧し、やがてその神殿体制は滅びると確信していたのです。

 この場面から半世紀も経たないうちにエルサレム神殿はローマ軍によって崩壊し、神殿体制は終わりました。イエスさまの発言を良く見るとこのような言葉があります・・「(神殿の)石一つでもくずされずに、他の石の上に残ることがなくなる」。現代のエルサレムでは「嘆きの壁」という場所があり、これは、二千年前の弟子たちが見た神殿の一部分であります。もしイエスさまが歴史的出来事として「他の石の上に残ることがなくなる」と発言なさったとしたら、その“予想”は当たりませんでした。それなりの数の石が当時の形を保ったまま未だに残っているわけですから。イエスさまは、一番に、神殿崩壊に着眼点を合わせていたわけではなく、神殿体制の終わりの “向こう側”を見ていたと私は思います。

 21章を読み通すと、イエスさまは「世の終わり」に注目していることが分かります。9節に出てくる「終わり」という言葉は「テロス」という言葉です。これは、「終わり」という意味に加えて、「目的」「目標」「完成」という意味が含まれます。「世の終わり」と聞くと、世界が滅亡するイメージが与えられますが、「世の完成」と聞くと、世界が成熟するイメージが与えられのではないでしょうか?このテロスという単語をどのように訳すかで、21章の内容はがらりと変わります。

 この場面で主イエスが意識していた終わり・目的・目標・完成は何だったのか・・それは十字架であったと私は思います。さらに言えば、それを通して、神さまの無限の愛と赦しから誰一人落ちこぼれることのないみ業が顕されることを意識していたのです。キリスト教は、イエスさまの意思を受け継ぎ、各々の体が、神さまの住まいとされ、神殿とされていると信じるようになりました(一コリ6:19)。エルサレム神殿とは異なり、誰もはじかれることなく、それぞれの生涯に伴われる神さまの姿を、イエスさまは今日の場面で見ていたのであろうと思わされるのです。

 私は今日の箇所を読みながら、イエスさまの「終わり」の捉え方に考えさせられました。イエスさまは、おそらく、「終わり」を「目的・目標・完成」という肯定的な意味も含めて受け止めていました。私たちは、人生・仕事・役割の終わりを否定的に捉えがちではないでしょうか。決して美化してはいけないことですが、その「終わり」という考えには、「目的・完成」という肯定的な意味合いがあることに気づかされます。私たちの目的・目標はなんでしょう?イエスさまの目的は、神さまの救いからはじかれてしまったと思

わされた人々に対する救いでありました。このイエスさまの姿に少しでもついていきたいものです。

(西本詩生)

 

≪祈りのリクエスト≫

①教会の伝道の働き・教会財政のために。

②バプテスマ・入会準備中の方々。

③入院/療養中/高齢で来られない方々。

④誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤主日礼拝(説教:西本詩生牧師)。

⑥「聖書を学び合う会」の活動のため。

⑦ひかり幼稚園の働きのため。

⑧弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑨各神学校と神学生のため。

⑩道内(無牧師の苫小牧)ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]のため。

⑪日本と世界の平和のため(ウクライナとロシア、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑫困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。

 


2023年月1祈祷会


2023年3月1日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会

 

本日の聖書箇所:ルカによる福音書11:1~13 (口語訳:新約106頁)

 

今日の箇所は、イエスさまが弟子たちに教えた、いわゆる“主の祈り”の言葉の記された箇所です。ただこのルカ版は、普段礼拝で祈るマタイ版に比べると、少し省略された形になっています。

また、マタイ版では、イエスさまが群集に向かってお話しされた長い説教の一部として扱われているのに対し、ルカでは、イエスさまがひとりで祈られた後の弟子たちとのやり取りとして紹介さます。弟子たちが祈り方を教えてほしいと願ったので、イエスさまは“主の祈り”を教えたのです。

そして、その直後にイエスさまは、真夜中に三つのパンを分けてほしいと頼んでくる迷惑な友人のたとえ話をされます。更に続けて、「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」というあの有名な言葉を紹介されるのです。つまり、ルカでは明らかに、「必死に願うこと」、「しつこく求めること」の大切さが強調されつつ、この“主の祈り”が紹介されているということです。

実際、しつこく願うことが強調されているだけあって、ルカ版の“主の祈り”は、すべて「願い」だけで構成されています。ただ、実はマタイ版も含めて、“主の祈り”には、そもそも「願い」の言葉しかなく、感謝の言葉は一切含まれていません。「願わくは・・・」で始まっていくこの祈りは、どこまでも願いばかりの祈りなのです。では、イエスさまは、弟子たちに、何をそんなに願うようにと教えられたのでしょうか。

ルカ版“主の祈り”は、以下の5つの願いによって構成されています。

①父よ、御名があがめられますように。 ②御国がきますように。 ③わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。 ④わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。 ⑤わたしたちを試みに会わせないでください

必死に願い、しつこく求める・・・などときくと、何か“わがまま”で“自己中”なイメージがしますが、祈りの内容をよく見てみると、ちょっと受ける感じが変わってくる気がします。最初の2つの願いは、自分自身の願いというよりは、父なる神さまについての願いです。ただ、「御名をあがめます」という讃美の言葉でもなければ、「御国がくると信じます」という告白の言葉でもなく、あくまで「あがめられますように」、「きますように」との“願い”であることもポイントかもしれません。

また、後の三つの願いは確かに自分についての願いではありますが、“自分だけ”の願いではありません。どの願いも、主語は“一人称複数(わたしたち)”となっています。そこで、直後に語られた、真夜中にパンを求めてくる友人のたとえを見てみましょう。まさにこの友人ほど、非常識で、“自己中”な人間はいないと思えてしまうわけですが、よく読んでみると、彼がパンを求めたのは、自分のためだけでなく、突然訪ねてきた旅する友人のためでもあったことがわかります。まさに“わたしたち”のための願いであったわけです。

イエスさまは“主の祈り”によって、願い求めることの大切さを教えてくださいました。ただ、その“願い”は必死に祈ることによって、深められ、ある時には変えられていくのかもしれません。また、“共なる願い”へと導かれていくのかもしれません。

なお、神さまは求めてくる者たちに何を与えると、イエスさまは仰っているでしょう?(13節)

(石橋大輔)

≪祈りのリクエスト≫

①教会の伝道の働き・教会財政のために。

②バプテスマ・入会準備中の方々。

③入院/療養中/高齢で来られない方々。

④誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤主日礼拝(説教:石橋大輔牧師)。

⑥「聖書を学び合う会」の活動のため。

⑦ひかり幼稚園の働きのため。

⑧弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑨各神学校と神学生のため。

⑩道内(無牧師の苫小牧)ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]のため。

⑪日本と世界の平和のため(ウクライナとロシア、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑫困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。