2023年11月29祈祷会

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11月29日祈祷会の資料
20231129祈祷会ルカによる福音書2:22~35.pdf
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2023年11月29日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会 

 

本日の聖書箇所:ルカによる福音書2:22~35 (口語訳:新約86頁)

 

 今日は、エルサレム神殿で、シメオンという人物が、赤ん坊イエスと出会う場面です。背景にある律法を考えると(レビ12)、イエスさまが生まれてから少なくとも33日は経っていた時のことです。

 シメオンは「正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた」とあります(25節)。彼は聖霊からの約束に希望をおいて生きていました。「主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはない」という約束です(26節)。見えない神さまによって与えられた約束は、「神さまを見る」という内容でした。ユダヤ人の常識上、神さまを見ることは死ぬことを意味しました(出エ33:20)。シメオンは救い主を目にすることを望みつつ、死ぬことを覚悟していたのでしょう。

 小さな赤ん坊イエスを見た瞬間、シメオンはその赤ん坊が救い主であり神であると分かりました。なぜそれが分かったかについて聖書は教えてくれません。けれども、見た瞬間分かったのです。神さまが約束を果たしてくれたことに、彼は感謝しました。それと同時に死なない自分がいることにも気づきました。その時、彼の心に変化が起こり始めたのでしょう。恐らく、律法を厳密に守るユダヤ人シメオンは、ごちごちの民族主義者でした。「イスラエルのみ」という考えです。イエスさまに会う前、彼の希望は「イスラエルの慰め」(25節)に限られていました。イエスさまと出会うことで、「イスラエルのみ」という固定観念が崩れはじめたのです。

 シメオンの行動は、今までの律法通りの真面目な振舞いを打ち破るものでした。彼は、両親からイエスを取り上げ抱っこし(28節)、祭司にささげられる前に一家を祝福しました(34節)。シメオンは祭司でもなんでもないのに、祭司のように振舞ったのです。これはどう見ても律法違反です。しかも、その赤ん坊が神さまであると分かった上で祝福したのです。今までのシメオンではない、固定観念を超えていくシメオンがこの出会いを通して生まれたのです。バプテスト教会が万人祭司と言う場合には、シメオンのように誰もが祭司のように祝福できるという発想は持ちたいものです。「礼拝の中での祝祷は牧師がするもの」と考えがちですが、果たして牧師のみなのでしょうか。

 イエスさまと出会った後のシメオンの発言内容を見ると、彼が目にしているキリストが世界の救い主であることが分かります。「救い」は「万民のまえにお備えになったもの」(31節)です。イスラエルの慰めではありません。32節の「光」(イエスさまのこと)は、異邦人を照らすための光でもあり、イスラエルの栄光のための光でもあります。彼は「イスラエルの多くの人」(34節)だけではなく、すべての人という意味の「多くの人」(35節)の救いを待ち望むようになりました。「イスラエルのみ」という固定観念が完全に崩れたのです。

 イエスさまと出会わされるということは、感謝が湧き上がるということであり、同時に、狭い固定観念を毎日広げる生き方を選ぶということなのでしょう。「これはこうあるべきだ」、「これはこうするべきだ」・・・“べきだ”さんから自由になるということです。今日もイエスさまが出会ってくださることに感謝しつつ、固定観念を超えていく聖霊の促しを拒まずにいたいものです。

(西本詩生)

 

≪祈りのリクエスト≫

① 教会の伝道の働き・教会財政のために。

② バプテスマ・入会準備中の方々。

③ 入院/療養中/高齢で来られない方々。

④ 誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤ 主日礼拝(説教:西本牧師)

⑥ 「聖書を学び合う会」の活動のため。

⑦ ひかり幼稚園の働きのため。

⑧ ジョイフル コンサートとバザーのため(12月2日開催)。

⑨ 弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑩ 各神学校と神学生のため。

⑪ 道内の教会(無牧師の苫小牧)、ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]のため。

⑫ 日本と世界の平和のため(パレスチナ、ウクライナ、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑬ 困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。

 

≪私の祈りのリクエスト≫

 


2023年11月22祈祷会

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11月22日祈祷会の資料
20231122祈祷会ローマ人への手紙8:31~39.pdf
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2023年11月22日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会 

 

本日の聖書箇所:ローマ人への手紙8:31~39 (口語訳:新約244頁)

 

 今日の箇所で、パウロは12 回も読者に質問をしました。31節:「神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか?」 32節:「どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょうか?」(新改訳) 33節:「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか?」 34節:「だれが、わたしたちを罪に定めるのか?」 そして35 節:「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか?患難か?苦悩か?迫害か?飢えか?裸か?危難か?剣か?」

 それぞれの質問に対して、パウロが導こうとしている答えは明白です。「キリストの故に誰もできない」ということです。100歩譲って・・・それらをするのに最もふさわしいお方は神さまだと言えるでしょう。神さまがそれを願うのであれば、私たちを敵視し、私たちに恵みを及ぼさず、私たちが成す一つ一つの事を指摘し、訴え、私たちを罪に定めることはいくらでもできるのでしょう。けれども神さまは、ご自分の御子を十字架にお送りになるほど、私たちを心底愛されたのです。私たち一人一人は神さまの側から一方的に「よし」とされているのです。この部分はダメで、ここを改善してから「よし」とするのではありません。欠けがあるまま、まるごと「よし」とされ、愛されているのです。神さまご自身がこの決断をされたのですから、「わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことは」何もない・・とパウロは断言し、これまでのローマ書で語ってきたことを締めくくっているのです。

 人生の月日を重ねていけば、しばしば「終わってしまった・・・あきらめるしかない・・・もうダメだ」としか思えず、絶対的な終止符が打たれたような出来事が起こってしまいます。絶望や挫折・・・「死」という断絶はそれを最も感じさせる出来事かもしれません。けれども私たちの目には終止符としか見えない出来事が、神さまの目には区切りに過ぎないとパウロは言うのです。

 その根拠はキリストにおいて示された神さまの愛にあります。「イエスはもう終わった」・・・神と人から見捨てられる結末に思えたイエスさまの十字架の場面です。弟子たちでさえ「もう取り返しがつかない」と思い、途方に暮れていましたが、みじめな姿で呪いの木にかけられたイエスさまを、神さまは立ち上がらせました。「死」という命の終わりを復活の初めとされたのです。どう見ても終止符としか思えない出来事が、「よし」とされ、希望の通過点に変えられたのです。常識では信じられないことです。だからこそ信じることに値する希望がここに示されたのだと僕は思うのです。

 わが家の次女が生まれる時、担当医師に「命がけで生まれてくるだろう」と告げられました。これを聞いて、妻と一緒に悩みました。「どうなるのだろう・・・」と。そして、そこで妻に伝えたのは、「何があろうとも、娘は神さまに愛されているんだ」と。この真実が支えとなったのです。もはや、「死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」ここに希望があると信じ続けたいものです。

(西本詩生)

 

≪祈りのリクエスト≫

① 教会の伝道の働き・教会財政のために。

② バプテスマ・入会準備中の方々。

③ 入院/療養中/高齢で来られない方々。

④ 誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤ 主日礼拝(説教:西本牧師)

⑥ 「聖書を学び合う会」の活動のため。

⑦ ひかり幼稚園の働きのため。

⑧ 「みんなで助け合い」プロジェクトのため(11月28日開催)。

⑨ 弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑩ 各神学校と神学生のため。

⑪ 道内の教会(無牧師の苫小牧)、ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]のため。

⑫ 日本と世界の平和のため(パレスチナ、ウクライナ、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑬ 困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。

 

≪私の祈りのリクエスト≫

 


2023年11月15祈祷会

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20231115祈祷会ペテロの第一の手紙2:9~10.pdf
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2023年11月15日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会 

 

本日の聖書箇所:ペテロの第一の手紙2:9~10 (口語訳:新約368頁)

 

 1章13節から2章10節までが一つのくくりだと考えられています。1章13節の「心の腰に帯を締め」という表現からうかがえるように、イスラエルの人々がエジプトの奴隷生活から解放された物語が、この部分で一貫して前面に出ています。旧約聖書を代表する物語が、今度は迫害されている教会に重ねられながら手紙が展開されているのです。イスラエルの人々がパロの支配からあがなわれた(買い戻された)ように、「あなたたちはキリストの尊い血によってあがなわれた神さまのこどもたち」であるとペテロは伝えたのでした(1:19、1:14)。このように語りながら、迫害という苦しみの中にあった教会に対して、「信仰にかたく立つように」とペテロは励ましたのです(5:9)。

 9節でこうあります「あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。」と。4つのことが語られています。

 ①「選ばれた種族」。この表現は、荒野をさ迷っていたイスラエル人に告げられた言葉を思い起こさせる意図があります。申命記7章7~8節のところです「主が・・・あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして・・・あがない出されたのである。」。迫害を受け、自らの無力さを知らされていた教会は強烈な“蚊帳の外”感を感じていたことでしょう。その疎外感に寄り添う神さまの姿がここにあります。神さまは、苦しみを強いられた「小さくされた」人々をあえて選び、その愛と注目を注ぐのです。

 ②「祭司の国」(英語:royal priesthood 王族にふさわしい祭司団)。信徒たちは日常的に「悪人呼ばわり」され(2:12)、「ののしられ」(3:16)、「苦しみと恥」を受けていました(4:16)。このことを考えると、キリスト者は最も王族から遠ざかった人々でありました。現に、ローマ帝国から迫害を受けていた時代です。時の権力者たちにいじめられた人々が「あなたたちは王族にふさわしい祭司団」であると言われたのです。祭司とは神さまと人々を繋ぐ務めを任されていました。つまり、神さまと直接出会うことがゆるされた人々です。周りにはそうは思われなかったのでしょうが、神さまの目には、迫害された人々が王族にふさわしい者であり、そして、キリストのあがないのゆえに、神さまが出会ってくださる人々であったのです。

 ③「聖なる国民」。②と④合わせてこの表現は出エジプト記19章5~6節からの引用だと思われています。「あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。・・・あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう」という箇所です。「聖なる者」とは「油注がれた者」・・・「他から選別された」という意味合いを持ちます。何のために他から選別されているかが課題となります。②で触れたように、神さまと人を繋ぐ祭司とされたのですから、神さまを証しすることに招かれていると言えるでしょう。このことについては、最後に触れます。

 ④「神につける民」(新改訳:「神の所有とされた民」)。この手紙が対象とされていた人々の中に、主人のもとでひどい扱いを受けていた奴隷も含まれていました(2:18)。誰にも大事にされていないと感じていた人々が「あなたが私(神)の宝ものだ」と言われたのです。

 9節前半では、苦しみの内にある信徒たちは、実は神さまに特別に選ばれていることが語られ、9節の後半でその選びの目的が明確にされています。「それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」と。周りから批難を受けていたキリスト者たちは、その状況から逃れるという選択があったのでしょう。あるいは、信仰を妥協するということも可能だったのでしょう。ペテロご自身が、イエスさまが裁判にかけられている場面で「イエスなど知らない」と言い張ったように。この経験が念頭にあったのかもしれません。ペテロが迫害を受けていた人たちに促したのは、逃げることでも、妥協することでもありませんでした。その苦難の中で、キリストのみわざを証しすることでした。苦しみの中であわれんでくださるイエスさま・・・暗闇の中で光となってくださるイエスさまのあたたかさを噛みしめて、それを述べ伝える・・・神さまの民として歩み続けることを促したのでした。私たちも「驚くべき光の中」に招かれていることを覚えて、この手紙を最初に読んだ信仰の先輩たちに連なり、「すばらしいみわざ」を指し示していきたいと思わされるのです。

(西本詩生)

 

≪祈りのリクエスト≫

①教会の伝道の働き・教会財政のために。

②バプテスマ・入会準備中の方々。

③入院/療養中/高齢で来られない方々。

④誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤主日礼拝(説教:西本牧師)

⑥「聖書を学び合う会」の活動のため。

⑦ひかり幼稚園の働きのため。

⑧弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑨各神学校と神学生のため。

⑩道内の教会(無牧師の苫小牧)、ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]のため。

⑪日本と世界の平和のため(パレスチナ、ウクライナ、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑫困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。

 

≪私の祈りのリクエスト≫

 


2023年11月8祈祷会

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20231108祈祷会コロサイへの手紙1:24~29.pdf
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2023年11月8日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会 

 

本日の聖書箇所:コロサイ人への手紙1:24~29 (口語訳:新約315頁)

 

 24節でパウロはこう言います「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。」と。捕らえ方によってはこう読めるかもしれません・・・「イエス・キリストの苦難は、不十分であった」と。そうだとしたら、私たちの行いは、恵みに対する喜びの応答ではなく、救いを完成するための努力になってしまいます。この考えに基づくと、救いに達成するかしないかという線引きがされ、非常に窮屈でギスギスした日常になりかねないと言えるでしょう。そもそも誰がその線を決めるのでしょうか?教会でしょうか?人がこの線を決める時、救いを得るために行いをすることとなってしまいます。カルト宗教に共通する信仰の姿です。このようなことを踏まえると「キリストの苦難は、不十分であった」という考えは受け入れがたいものです。違う読み方はないのでしょうか?29節から後戻りしながら、24節の意味を詳しく見ていきたいと思います。

 29節でパウロは、自らの努力には目的があると言っています。そしてその「苦労しながらの努力」は「わたしの内に力強く働いておられる(キリスト/神/霊)の力」によるものだと言うのです。自分の力からによる努力だとは言っていないところが肝です。

 28 節ではパウロの「努力」の目的が明確にされています。それは、彼が福音を分かち合ったすべての人が「キリストにあって全き者として立つようになるためである」と記されています。そしてそれを達成するためにパウロは「キリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている」と言うのです。これはキリストの力によるパウロの絶え間ない努力です。

 26・27 節では、パウロの教えの詳細が記されています。 26節の「奥義」は何を指しているのでしょうか? 過去の時代に完全に明らかにされていなかったのは、ユダヤ人の救世主キリストが実際には、非ユダヤ人の内にもおられるということです。キリストが内におられるのだから、「望み」と信頼をもって生きようとパウロは教えられたのです。

 25 節では、パウロの働き、ないしその努力がいかに位置づけられているかを説明しています。つまり、「神の言を告げひろめる務」は「神から与えられている」と言うのです。そして神さまから務めを与えられているということは、教会に奉仕することと切り離せないと言うのです。

 24節で今日の聖書箇所の課題が浮かび上がってきます。そもそも、「キリストの苦しみのなお足りないところを補うこと」などできるのでしょうか? 29節まで見ると、パウロの「務」は国々に神の言を届け、希望を指し示し、人々を信仰に招くものでした。そしてこの「務」において苦しみを受けたのでした。この文脈を踏まえると、「キリストの苦しみのなお足りないところ」とは、イエス・キリストの救いの価値が足りないと言う意味ではなく、「キリストの苦しみ」による救いがまだ皆に知られていないという意味なのでしょう。神さまのご意志は、キリストが既に皆の内におられるという「奥義」が、一人一人に知られることなのです。そのためには、キリストを述べ伝える働きが必要であり、そこには「キリストの苦しみ」が伴うと言っているのでしょう。

 ここでイエスさまの言葉を思い出します。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28-30)。キリストを述べ伝えることは、世の中の流れに逆らうことを意味し、それ故に苦労は多いと言えるでしょう。イエスさまご自身が逆風の中を歩まれたのですから。イエスさまは私たちに彼の「くびき」をくださり、その「荷は軽い」と言います。この「くびき」とは家畜が使う、二人用の「くびき」です。イエスさまは共に荷を負い、それと同時に、私たちもイエスさまの荷を負うのです。イエスさまと共に歩む道には必ず喜びがあると、ここにおられる皆さんも言えるのではないでしょうか?パウロはそれ故に、苦難の中でも多くの喜びを見出したのでしょう。 

(西本詩生)

 

≪祈りのリクエスト≫

①教会の伝道の働き・教会財政のために。

②バプテスマ・入会準備中の方々。

③入院/療養中/高齢で来られない方々。

④誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤主日礼拝(説教:石橋牧師)

⑥「聖書を学び合う会」の活動のため。

⑦ひかり幼稚園の働きのため。

⑧弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑨各神学校と神学生のため。

⑩道内の教会(無牧師の苫小牧)、ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]のため。

⑪日本と世界の平和のため(パレスチナ地域、ウクライナ、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑫困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。

 

≪私の祈りのリクエスト≫

 


2023年11月1祈祷会

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11月1日祈祷会の資料
20231101祈祷会へブル人への手紙11:1~3.pdf
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2023年11月1日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会 

 

本日の聖書箇所:へブル人への手紙11:1~3 (口語訳:新約354頁)

 

 「『信仰』とは何ぞや?」を考える時、今日の11章1節が取り上げられることが多いと思います。「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」と、この手紙の著者は言うのです。どのような文脈の中で「信仰とは・・」というくだりが語られたのでしょうか。直前の10章39節では「わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。」(新共同訳)とあります。「ひるまない」歩みがどのような歩みであるかを説明しているのが、11章1節であると言えるでしょう。

 そもそも私たちはなぜひるむのでしょうか?テレビをつければ紛争や災害の報道が目立ちます。それらがあまりにも頻繁に起きるために、昨日まで熱心に関心を向けていた出来事が、新しく他の出来事で更新され続ける日々を送っているように思えてなりません。または、身近なことで言えば、思いがけない病や不幸を患った時、自分の不十分さに気づかされる時、どういうわけか失敗を繰り返す時・・・様々なことが思い浮かびます。そう考えると私たちをひるませるものは絶えません。そしてそれらに共通することは、理想が崩されてしまうからなのでしょう。

 この手紙が宛てられた教会もひるみ続けていたと言えると思います。そうでなければ、このような言葉は生まれなかったでしょうし、それゆえにこの手紙の内容が伝えられなくてはいけなかったのです。「ひるまないようにしよう。今、目の前の現実は理想を裏切るようであっても、それでも、私たちの主なる神さまは生きて働いておられる。この望みに生きよう!」という励ましのメッセージが手紙で送られてきたのです。そしてこの言葉が、聖書に耳を傾ける数えきれない人々を二千年間元気づけてきたのです。

 1節と3節で「見る」ことと「見えない」ことについて語っています。これらを語ることによって、著者は何を伝えようとしたのでしょうか。3節にはこうあります、「見えるものは、目に見えているものからできたのではない」と(新共同訳)。つまり「見えるものは見えないものに支えられている」こと・・・「見えるものが全てを物語っているのではない」と言うのです。このことに気づくことが信仰の知恵です。「信仰とは、目に見えるものによって奪われない心の芯を持ち続けることだ」と耳にしたことがありますが、本当にそうだと思います。

 奪われず、揺るがない心の芯・・・そのような堅い信仰は私には持ち得ないと思うのが自然かもしれません。でも、そもそも「奪われない心の芯」というものは自分の中から芽生えるものなのでしょうか。1節に「信仰とは、望んでいる事がらを確信し」とありますが、この「確信」という言葉は「何かの下にある」という基本的な意味を持ちます。それが下にあるために、上のものが支えられているということです。私たち一人一人も含めて、皆を支える「下にあるもの」は何でしょう?聖書に言わせれば、それは十字架にかけられたイエスキリストです。神に等しい御子イエスが、ひるむ私たちを支え救うために、十字架にまで降ったのです。そして、そこから、復活させられたのです。十字架と復活の主イエスが堅く立ち続けてくださる・・・このイエスさまに支えられているのです。このことを思う時、「堅く信じなければ」という肩の力がスッと抜け、希望をもって今日から明日へ向かって行ける励ましを受ける・・・このメッセージが聴こえてくるのです。  

(西本詩生)

 

≪祈りのリクエスト≫

①教会の伝道の働き・教会財政のために。

②バプテスマ・入会準備中の方々。

③入院/療養中/高齢で来られない方々。

④誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤主日礼拝(説教:西本牧師)【主の晩餐式】

⑥「聖書を学び合う会」の活動のため。

⑦ひかり幼稚園の働きのため。

⑧弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑨各神学校と神学生のため。

⑩道内の教会(無牧師の苫小牧)、ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]のため。

⑪日本と世界の平和のため(パレスチナ地域、ウクライナ、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑫困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。

 

≪私の祈りのリクエスト≫