2023年1月25祈祷会


2023年1月25日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会

 

本日の聖書箇所:ルカによる福音書3:1~20 (口語訳:新約87頁)

 

・『ルカによる福音書』は、四つの福音書の中で、唯一、バプテスマのヨハネの誕生について記した福音書です。高齢となったエリザベトとその夫である祭司ザカリヤとの間に生まれたのが、バプテスマのヨハネと呼ばれることになるこのヨハネでした。

・そして、そのヨハネの誕生の出来事は、天使によって受胎告知を受けたマリヤが、親戚に当たるエリザベトを訪ねたことで、イエス・キリストの誕生の出来事と、不思議に結び付いて紹介されていくのです。

・今日の箇所には、そのヨハネが成人し、自らの活動を展開している様子が描かれていきますが、福音書記者ルカは、バプテスマのヨハネの活動についての紹介を、預言者イザヤの言葉をもって始めます。「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」。これは、旧約聖書のイザヤ書40章に書かれた言葉の引用です。こうして、バプテスマのヨハネによって、イエス・キリストとは、旧約聖書と切り離されたものではなく、まさに旧約の時代から、神さまがその歴史の中で預言者たちを通して語られた預言の成就であることが示されています。

・そのヨハネは、ヨルダン川で、人々にバプテスマを授けていました。そのバプテスマは、“悔い改めのバプテスマ”と呼ばれました。もともとバプテスマは、ヨハネによって始められたわけではなく、それまでにもバプテスマ自体は行われていたようです。当時、ユダヤ人にとって異邦人は汚れた存在と考えられており、もし、その異邦人がユダヤ教に改宗するなら、三つの事柄を経験しなければなりませんでした。第一に割礼を受けること。第二に贖いのための血のいけにえをささげること。そして第三にバプテスマを受けることでした。ここでいうバプテスマとは、その人の過去の汚れが清められたことを象徴するもので、その意味で、異邦人にだけ求められたバプテスマでした。

・しかし、ヨハネのバプテスマは、異邦人だけでなくユダヤ人にも求められました。それは、ユダヤ人に対して、民族的にユダヤ人であるということが、神の選ばれた民であることの根拠にはならないことを示すことになりました。「すべての人は、神の前に悔い改めなければならない」。そのことをヨハネは示したのです。

・そのような力強いメッセージをもったヨハネのもとに、人々は、群れをなして集まってきました。悔い改めのバプテスマを受けるために、多くの人が、長い列をなしたのです。しかし、ヨハネは、言いました。「わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない」と。それは、彼が心から思っていたことであったでしょうし、彼はそれを繰り返し繰り返し、人々に伝えたのです。それは、安っぽい謙遜から出た言葉ではありませんでした。誰よりも、ヨハネ自身が、救い主を待望し、救い主が来てくださることを必要としていたのです。

 

(石橋大輔)

 

 

≪祈りのリクエスト≫

①教会の伝道の働き・教会財政のために。

②バプテスマ・入会準備中の方々。

③入院/療養中/高齢で来られない方々。

④誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤主日礼拝(証し:定免直未姉)。

⑥故千葉賢三兄の葬儀のため。ご遺族に慰めがありますように。

⑦ひかり幼稚園の働きのため。

⑧弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑨各神学校と神学生のため。

⑩道内(無牧師の苫小牧)ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]。

⑪日本と世界の平和のため(ウクライナとロシア、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑫困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。

 

 


2023年1月18祈祷会


2023年1月18日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会

 

本日の聖書箇所:申命記5:12~15 (口語訳:新約253頁)

 

 聖書には「十戒」という大切な教えがあり、旧約聖書では①出エジプト記20章と②申命記5章に登場します。今日の箇所は、②申命記の安息日(働きから休みを取る日)に関する教えです。

 出エジプト記20:8~11では、安息日を守る根拠が創造物語と結びつけられています。つまり、神さまは6日の間にすべての働きを終え、7日目に安息を取られたとあります(創世記2:2~3)。そして、今日の箇所は、神さまがイスラエルの人々を奴隷から解放したことが安息日の根拠とされています。誰の目にも留まらない“見逃された”奴隷たちの嘆きを神さまが聴き入れ、その過酷な状況さら救い出されたのです。そもそも奴隷たちにとって「休日」という選択肢はありませんでした。ですので、休むことを選び取れること自体が解放を意味したのです。もしも、私たちが休みを取れない状況にあるとしたら、それは聖書が言わんとする「奴隷」と同じ状況であり、解放(改善)が必要あると言えるでしょう。

 安息日の意義を復習すると、それは、①神さまが休まれたように休むこと、そして、②神さまの救いを想起することとして聖書は紹介するのです。しかも、それは限られた人々に向けられた教えではないことが事細かく説明されています。14節には「あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、もろもろの家畜も、あなたの門のうちにおり他国の人も」とあります。共同体の主導権を握る限られた人々だけでなく、一人も残らず誰もが休み、「労働者」の一員である家畜たちにも及ぶ、包括的な教えであることが分かります。休むことにおいて、皆が平等であることがここで伺えます。

 今日の教えが語られた時代では、その共同体は、一つの宗教・秩序でまとめられていました。ですので、日曜日など、ある特定の日に、一斉に休むことは可能な事だったのでしょう。現代の日本ではどうでしょう。ある特定の日を全て人々(命)の安息日にすることは無茶ぶりではないでしょうか。教会に来ることを考えても、多くの方々の働きがあるから集えるのです。けれども、働きから休みを取り、神さまの救いの出来事を覚えるひと時を持つことの大切さは、今日のみ言葉から受け取れることだと思います。

 そもそも、働きを休むということは何を意味するのでしょう。神さまの創造物語の安息はどうだったのでしょうか。創造の働きは六日間続きました。神さまは休まれた日は、その働きの前でもなく、中日でもなく、全てが終えられた後であったということは、働きの実りを一部分だけでなく、その完全の形として、改めて喜ばれたと理解できると思います。神さまは、創造された自然・動物たち・人々との交わりを安息日に持ち始め、喜ばれたのです。

 キリスト教会は、神さまを礼拝することを安息に欠かせないこととして受け継いできました。私たちは礼拝の中で神さまの喜びに出会い直します。喜ばれた者として神さまを喜びます。今日の箇所で「子どもたち」、「しもべ・はしため」、「もろもろの家畜」や「他国の人」の働きの休みが記されています。もしかしたら、彼らは、“見逃されやすい”存在だったのかもしれません。私たちも、忙しい日々の中で見逃している隣人や働きがあるのかもしれません。安息日に、神さまの喜びが届いているそれぞれのことを改めて感謝し、喜ぶことも、その意義に含まれています。私たちの「喜ぶ視野」はどこに広げられているのでしょうか。神さまの喜ぶ視野は無限に広がっているのです。                     

(西本詩生)

 

 

≪祈りのリクエスト≫

① 教会の伝道の働き・教会財政のために。

② バプテスマ・入会準備中の方々。

③ 入院/療養中/高齢で来られない方々。

④ 誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤ 主日礼拝(説教:西本詩生牧師)。

⑥ “聖書を学び合う会”の導き。

⑦ 子どもたちを教会に迎えるための知恵。

⑧ ひかり幼稚園の働きのため。

⑨ 弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑩ 各神学校と神学生のため。

⑪ 道内(無牧師の苫小牧)ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]。

⑫ 日本と世界の平和のため(ウクライナとロシア、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑬ 困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。