『 共に福音にあずかるために 』

詩篇66:1

コリント人への第一の手紙9:19~27

2024年4月28日(日)

 

子どもメッセージ

  このような物語を耳にしたことがあると思います。それまでずっと大都会で暮らていた小学生が、初めて地方に引っ越すことになりました。その子は、それまで、大都会以外のところに暮らすことなど考えたこともありませんでした。本音を言えば、「地方に何のいいことがあるんだろう?地方暮らしなんか嫌だなぁ」と勝手に思い込んでいました。いざ引っ越しをすると、近所の子どもたちに誘われ一緒に遊ぶようになりました。最初は大都会の自慢ばかりしていたものの、近所の子どもたちと山や川の自然の中で自由奔放に遊ぶようになり、そこでの暮らしの良さを知るようになりました。私はこのようなお話を小学校の授業の中で耳にし、深く納得したことを思い出します。担任の先生が言わんとしたことは、どんなところでも、どんな人の間でも、そこには必ず「良さ」があるのではないか?ということだったと思います。だから、どれがいいとか、どれが悪いとか、人や事を比べるよりも、それぞれの「良さ」に注目してみないか?ということでした。

小学生の時にそのお話を聞いて、20年弱が経った時のことです。私は30歳手前でアフリカのマラウイという国で、2年間ボランティアをすることになりました(青年海外協力隊員)。マラウイという国は、日本から見れば地球のまるっきり反対側にあると言っていいほど遠いところにあります。飛行機を使っても丸1日半かかります。しかも、僕が住んだ町は、マラウイの中の地方の小さな小さな町でした。飛行機でマラウイの一番大きな町に辿り着いても、またさらにそこから車で一日半はかかるところでした。つまり、日本から旅立って、丸三日間移動して、やっとたどり着ける町に僕は住むことになったのです。それまで僕は東京という大都会に住んでいましたが・・・その大都会から最も遠いと言ってもおかしくない、世界のまるっきり反対側にある小さな小さな町に住むようになったのです。

マラウイに行く直前に撮ったパスポート写真がこれです。自分で言うのも恥ずかしいですが、“ド”がつくほど真面目そうな顔ですよね(笑)。この真面目そうな堅い表情が、マラウイで過ごすことで、どう変わっていくのでしょう・・・。

マラウイという国は、戦争が起きていない国の中では、最も貧しい国の一つと言われています。マラウイで生まれた人が、何歳まで生きれるかというと、平均で45歳であると言われていました。日本では女性が87歳、男性が81歳と言われていますので、うんでいの差です。それだけ、マラウイの人々の大半の生活は厳しく、病院で受けられる医療は不十分であると言わざるを得ません。

僕はどのような仕事をしたかというと、その町(県)の農業事務所で働きました。農家さんたちが一生懸命作るものを、もっと高く売れるようにお手伝いをする仕事でした(付加価値向上促進)。ですので、僕は農家さんと一緒に仕事をすることになりました。一度も畑を耕したことがない大都会育ちの僕が、農家さんたちと仕事をするのですから、問題が起きないほうがおかしいのです。

マラウイでの暮らしは、生活するにしても、仕事をするにしても、何をするにしても、今まで慣れていたことと全く違いました。例えば、会議を開こうとしても、時間通りに始まるということはまずありませんでした。2時間遅れでの開始は、珍しいことではありませんでした。10人集まることが約束でも、5人集まればいいほうでした。このような状況の中で直面したのは「何も思うように進まない」という大問題でした。それがしばらく続くと、「相手は何も分かっていない」という不満が日に日に大きくなりました。仕事仲間を見下すつもりはありませんでしたが、結果的にそうなってしまったのです。

そのような悩みを抱える中、ある先輩が勧めてくれたのは、農家さんの家に泊まることでした。一番仲良くしていた農家さんに泊まらせてくれないかと頼んだところ、何も躊躇せずにこころよく受け入れてくれました。結局、彼と彼の家に住む家族8人と1週間過ごすことになりました。そこでの滞在は、びっくり仰天の連続でした。たとえば、夜雨が降れば、雨漏りがひどすぎて、横になって寝れないのです。雨が止むまで、家の中で傘替わりになるようなものを頭にかぶせて何時間も過ごしました。雨が毎日降る時期は、まともに眠れないのが農家さんの日常だと分かったのです。普段から予期せぬことが起こるので、会議に出ること自体が奇跡のようなことであることが分かったのです。

農家さんの日常に目線を合わせる努力・・・何か思わぬことが起きた時には、それに至るまでの事を分かろうとすること・・・毎回このようなことを完璧にできませんでしたが、これらを取り入れることで、仕事がものすごく楽しくなりました。

僕の人生の中で、1週間マラウイの農家さんの家で生活した体験は、今でもとても大切なことを教えてくれています。相手の目線に合わせようとすること・・・何か思わぬことが起きた時には、それに至るまでの事を分かろうとすること・・・一緒に次の一歩を見出そうとすること・・・それは簡単なことではないのでしょうが、そこでしか得られない楽しさがあります。お互い全然違うにも関わらず、一緒に体験できてよかったなぁと思える楽しさです。

結局僕はマラウイで2年半その仕事をしましたが、ちょうど2年ぐらい経った時に、パスポートを更新しなくてはいけませんでしたので、その時の写真がこれです。先ほど紹介した写真との違いがあるかどうかに関しては、皆さんの判断にお任せしますが、僕から言わせれば、大きく成長させていただいた2年半でした。そして、それは神さまの助けがなければできなかっただろうなと、つくづく思わされるのです。

 

共に福音にあずかるため

 「わたしは、すべての人に対して自由であるが・・・自ら進んですべての人の奴隷になった。」「奴隷」。パウロは何度もこの言葉を使って自己紹介をしています。例えばローマ書1章1節で「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロ」と語っています。パウロは徹底して「私はイエス・キリストのものであり、イエス・キリストに仕えて生きる」という思いを持っていました。そしてパウロは自分の生き方として、ユダヤ人に対してはユダヤ人が大切にする律法を一点も欠けることなく重んじるように生き、律法を知らないギリシャ人には、ギリシャ人の生き方に合わせるように生き、弱い人には自分の弱さを隠さずさらけ出し、あらゆる人にそのように仕えてきたというのです。地に足がついていなく、定まらない生き方だと思われてもおかしくないのでしょうが、パウロはこの生き方をして、その目標点はいつも一緒でした。「その人を得るため」「救うため」だと言います。なぜそこまでするのでしょうか。その理由が23節にあります。「わたしも共に福音にあずかるため」です。今日のパウロの言葉の中心はここにあると言えるでしょう。共に福音にあずかることです。

 そもそもここで言う福音とは何でしょう。ヒントは・・・皆さんの目の前にあります。私たちはここ数年、「神われらと共にいます」を中期テーマとしてかかげてきました。「人生山あり谷あり。けれども・・・どんなことがあろうとも必ず神さまが私たちと共におられるのだから、大丈夫なんだ」ということです。そして、ここで注目するに値するのはもう一つあります。福音とは、ひとりが受けて、そのひとりで喜ぶものではなく、共にあずかるものであるということです。英語の聖書ですと、この「あずかる」を「share」と訳しています。受けた福音を、自分のところに止めるのではなく、それを受け渡し、自分もまた受ける・・・循環していくというイメージでしょうか。共にあずかることで、福音は福音となると言うのです。ここで出てくる「共に」をさらに厳密に訳せば「助け合いながら共に行動する」を意味します。福音は、ひとりで喜ぶものではなく、共にあずかり、喜びの知らせを共に喜び合って、互いに助け合いながら、共に行動するものです。ここにキリスト教会の目指すゴールがあります。

 コリントの町では、古代ギリシャの四大競技会の一つであったイストミア大競技会が隔年で開催されていました。走ることを競う競技にたとえて、パウロはキリストの教会の目指すところを指し示しています。パウロはここでチャンピオンになれと言っているのではなく、共に、目標とするゴールを目指そうではないかと言っているのでしょう。そしてパウロは自分にもそれを言い聞かせて「自分は失格者になるかも知れない」と語ります。失格者とは、ゴールを見失ってしまうことです。キリスト教会が目指すところは、個人の救いや、個人の栄光でもなく、共に福音にあずかるところにあります。喜びの知らせを喜び合って、互いに助け合いながら、共に行動することです。それがキリストの教会のゴールではないか・・・とパウロは説得するのです。

 

異質でありながらも、共に⇒ここに神さまの御業があるのでは

 子どもメッセージで取り上げた私の体験は、それからの私の人生に大きな印象を与えたと先ほど言いました。そもそもなぜそこまでの深い印象を受けたかを考えた時に、お互い人間であるという点を除けば、極端に異質な両者であったということ・・・ここに何か理由があるのではと思うようになりました。つまり、ほとんど同じような人・・・同質の人が何かを一緒にすることは、ある意味自然だと思います。何も頑張らなくても、助けがなくてもできることなのかもしれません。けれども、全く異質な両者が、共に歩もうとすること、分かり合おうとすること・・・そこには大いなる助け・・・神さまの御業が顕されなければ、起こらないのではと考えるのです。

 コリント教会に集められた人々は様々な人であったと思います。全く違った人たちが主イエスの復活した日曜日に集まり、神さまを礼拝し、食卓を共に囲み、主の晩餐にあずかりました・・・少なくともパウロがまだコリントにいた時にはそのような教会の姿でした。けれども、パウロがコリントを去って間もないうちに、教会は次第にバラバラになってしまったということに、パウロは深く悩んだのでした。問題の根っこは、異質な人たちがそこにおられたということではなく、その違いを乗り越えようとする志・・・違いをも超えて関わろうとする志が極端に抜け落ちていたことにありました。

 この延長線で考えると、教会は同じような人の集まりであってはならないのです。異質の集まりであるから、神さまが必要なのです。同質の統一・教会になってはいけないのです。違いを持ち、異質であるそれぞれが、神さまが共におられることを喜び合って、互いに助け合いながら、共に行動すること・・・ここに神さまの御業が起こされるのです。この喜びのゴールを見失わない私たちであり続けたい。我らの神に、共に祈りましょう。

 

 

(牧師・西本詩生)

 

 

 


『 共に生きるために 』

テサロニケ人への手紙3:12

コリント人への第一の手紙8:1~13

2024年4月21日(日)

 

子どもメッセージ

  「スイミー」という絵本を読んだことはありますか?少しお話を短くして紹介したいと思います(絵と文:レオ・レオニ、訳:谷川俊太郎「スイミー」好学者、1969年)。

① 広い海のあるところで、小さな魚たちが暮らしていました。赤い魚たちに混じって、一匹だけがカラスのように真っ黒でした。その黒色の魚の名前がスイミー。

② ある日、小さな魚達の群れに、お腹を空かせた恐ろしい大きなマグロが迫ってきました。

③ 毎日大きなマグロが襲ってくるので、小さな魚たちは岩陰で身を隠しながら過ごすしかありませんでした。「広い海を自由に泳ぎたいのに」と思いながら・・・大きなマグロに狙われないか、小さな魚たちはいつもビクビクしながら過ごしていました。

④ 小さな魚たちは大きなマグロに負けない方法を真剣に考えました。どうすればいいんだろう・・・と。そして思いついたのは、大きな魚のフリをすることでした。小さな魚たちが集まれば、大きな魚の形になれるのです。大きな魚に見えれば、マグロなんか怖くない。

⑤ 赤い魚たちは身体となり、スイミーは唯一黒色の魚でしたので、目になりました。みんなが力を合わせることで、小さな魚たちは堂々と広い海の中を過ごせるようになったのです。

僕の姪っ子が通っていた幼稚園で発表会が開かれることになり「スイミー」を演じたいという子どもたちの強い願いがありました。そもそもなぜそのような話になったかというと、クラスのお友達の一人が素早く動き回るのが苦手だったからです。ちょうど、自分一人で歩く練習をしていた時期でした。子どもたちが思いついたのは、その子がスイミー・・・大きな魚の目になればいいということでした。他の素早く動き回れるお友達は、スイミーの動きに合わせて、大きな赤い魚になるように演じればいいのでした。

残念ながら、私はこの発表会を観にいくことはできませんでしたが、子どもたちが力を合わせて、見事に大きな魚を演じきったと聞きました。絵本には出てきませんでしたが、怪獣ゴジラや恐竜も演じられたようです。集まった家の人たちは、子どもたちの発想力と助け合う姿に深く感動したそうです。感動していた人たちの中には、スイミーを演じた子どものお母さんもおられました。上手に歩けないかもしれないけれど、スイミーがいなければこの発表会は成り立たなかったのです。思いやるみんながいるから「大丈夫」という思いが伝わったのだと思います。

幼稚園でのこの出来事は、私たちにとって大切な学びを教えてくれるように思うのです。子どもたちの発想の出発点は、「今いるみんなで何ができるだろうか」ということでした。「決まった“これ”をしたいから、こういう人たちが必要だ」、「こうでなくてはいけないから、この人がいい、あの人はちょっとねー」・・・そういう発想ではなかったのです。素早く動くのが苦手なお友達も輝くにはどうすればいいんだろう・・・この発想から始まり、みんなで「スイミー」を演じたのでした。そして、そこには聖書が言わんとする「共に生きる」姿・・・愛し合う姿があったんだろうなと思うのです。

 

最も大切な考えが抜け落ちていた

 毎週金曜日、私たちの教会では「とよひら食堂」の手作りお弁当を、来られる方々と分かち合う活動をしています。現在270~280人分のご飯を炊いて、それをお弁当容器に入れる作業を1階ホールでしています。280人分ですので、それなりの人力が必要です。ちなみに、この活動は三つの拠点で進められ、私たちの教会では毎週90食を分かち合っています。

 定期的に活動の話し合いをするのですが、ちょうど2週間前その会議がもたれました。そしてその話の中で、手伝ってくださるボランティアの話題になりました。ここで私はハッとさせられる事がありました。自分の中で、ある大切な視点がいつの間にか抜け落ちていたことに気づいたのです。

 去年の秋ごろまで、近所に住んでいるあるご年配の方が、時折作業のお手伝いに入っていました。これは私の偏見が混じった捉え方であることを否めないのですが、その人は人の話を聞き入れることがとても苦手でした。もちろん、私の伝え方の不十分さはあったと思います。それに加えて、つい先ほど伝えたことが、10分も経たないうちにすっかり忘れられていることが日常茶飯事でした。作業の中で食品を扱っているため、手洗い、マスクや手袋をするなど、衛生管理は徹底しなくてはなりません。けれどもその方は、素手で作業をしようとしたり、衛生対策の何かを必ず忘れていたのです。それゆえに、こまめにフォローをする必要がありました。オブラートに包まずに言えば、その方が作業に加わることで、何倍もの手間がかかったのです。時には、お互いのことが分かり合えず、ちょっとした口論になることもありました。正直ストレスでした。でもこれは私だけの一方的な言い分です。その人に言わせれば、僕が、ストレスの要因だと言ってもおかしくないと思います。

その方は、雪が降るちょっと前に引っ越しし、近頃は今までのように教会に来られなくなりました。いざいなくなると寂しいものです。おられる時には悩んだりし・・・おられないと物足りない・・・。わがまますぎますね。

 先ほど、話し合いの中でハッとさせられたと言いましたが、この方とのやり取り・・・その経験は、自分の中で何かブレーキのようなものを生じさせてしまっていることに気づいたのです。本音を言えば自分の中に潜在的にあるブレーキが強化されたと言ったほうが正しいのでしょう。加わって欲しいボランティア像のようなものが自分の中に出来上がっていたのです。つまり、その考えをひっきり返せば、加わって欲しくないボランティア像が自分の中に出来上がっていたのです。

札幌バプテスト教会は神さまの教会であり、「とよひら食堂」のお弁当分かち合いは、福音に根ざすことを目指す教会の活動です。この活動に限られることではありませんが、教会に来られる誰もが、神さまが導いて特別に送ってくださった方だと信じたいものです。私の中で抜け落ちていた大切な考えとは、共に生きようとする意識と努力でした。問題が起きずに、いかに効率的に作業を進めればいいかという思考になっていたのでしょう。もちろん、衛生管理が徹底されながら、時間内に作業が終えられることはとても大事なことです。けれども「共に生きる」ことを忘れてないのか?と私自身が問われたのです。子どもメッセージで取り上げた幼稚園での発表会では、素早く動き回るのが苦手なスイミーに合わせて赤い魚を演じた子どもたちが動き回って、補ったのです。そこで「共に生きる」感動が生まれたのです。「共に生きる」発想が抜け落ちていないか?と問われ、頭を強烈にゴツンと殴られたような気がしました。

 

「そこに愛はあるんか?」

 6月末まで、私たちは、使徒パウロがコリント教会に送った手紙を読み進めていきます。これは僕の勝手な想像でしかありませんが、パウロに正直に言わせれば、コリント教会は「問題だらけの教会」であったと言うと思います。でもそれだけでなく、「神さまに愛された問題だらけの教会である」と言ったことでしょう。それゆえに、根本的な改善を促すために、最大限の愛情と熱意を込めて手紙を送ったのでした。

これら手紙で取り上げられた課題、そしてそれに対する助言を読むことで見えてくるのは「キリスト教会は何であるか」というテーマです。何をもって教会は人の集まり以上のもの・・・神さまが呼び集めたキリストの教会になるかということです。そして、今日の箇所からも、教会にとって大事な問いかけが聞こえてくるのです。

 今日の聖書では、市場で買ってきた肉を食べても良いかどうかという課題について、パウロが助言をしているところです。当時の地中海世界の日常や文化をほとんど知らない私たちにとって「何のこっちゃ?」となると思いますが、当時、市場で売られていた肉のほとんどは、何らかの宗教儀式に一度使われた肉でした。キリスト教ではない宗教です。そのため、それら肉を食することに戸惑いを覚えた信徒たちがいました。「他の宗教の儀式で使われた肉を食べるのは、不信仰ではないか」と悩んでいたのです。そもそも、低所得層の人たちにとって、肉を食することは年に一度あるかないか、とても珍しいことでした。低所得者のたんぱく源といえば、豆ないし、乾燥した小魚でした。

 肉を食することに戸惑いを覚えていた信徒たちがいましたが、そのような考えに対して異論を訴える信徒たちもいました。このような考えでした。「私たちの神さまは唯一の神さまであるのだから、他の神々にささげられた肉だからと言って、その肉が汚れるわけがないでしょ。」と。恐らく、この異論を訴えていたのは、普段から肉を食べていた人たちでした。つまり、肉を買えるぐらい一定の所得を得ていた人たちでした。

 パウロは、「肉を食べてもいいでしょ」と訴える人たちの振る舞いに極度の違和感を覚えたのです。そしてこのように語りました。「確かに、異教の神々にささげられたからといって、肉が汚れるわけではない。肉を食べたからと言って、人は汚れない。そういう意味では、肉を食べるかどうかはそれぞれの自由だ。けれども、正しいかどうかが問題なんだろうか?キリストの教会にとって、一番肝心な事が抜け落ちていないだろうか?」と問いかけたのでした。

 パウロは1節でこう言います「知識は人を高ぶらせるが、愛は(人を)造り上げる。」と(新共同訳)。愛が抜け落ちてないか?と問いかけたのでした。ぼう金融会社のCM の「そこに愛はあるんか?」と全く重なってしまいます。あるクリスチャンの友人がこのCMを観て、少し残念がって「民間に先を越されちゃいましたね」と言ってました。言わんとしていることは分からなくはないですか、とても重要な本質的な投げかけがここにあると思うのです。「そこに愛はあるんか?」。

 

愛することと共に生きることは切り離せない

問題となるのは、そもそも聖書が言わんとする愛とは何であるかです。「日本語の『愛』と言われても、正直ピンとこない」とある方が先週の祈祷会でおっしゃってました。話が深まる中で、ある方が「愛とは関わることではないだろうか」と言いました。また別の方は「共に生きることではないか」と語っていました。聖書が言わんとする愛についての本がいくつも出版されているぐらいですから、一言二言で語り尽くすことはできないのでしょうが、祈祷会での発言を聞きながら本当にそうだなぁと思わされました。愛があるところでは、必ず人と人との深い関わりがあるでしょうし、共に生きる現実があるのです。そして、関わること・・・共に生きようとすることは、手間がかかります。めんどくささとややっこしさが付き物です。それを避けたほうが、物事は簡単でストレスも軽減できます。けれども、聖書は愛することを促すのです。なぜなら、そこでしか見いだせない深い喜びと感動があるからです。神さまの善き力がそこで発揮されるから、パウロは愛することを徹底的に促したのです。

「肉を食べていいでしょ」と言い張っていたコリントの信徒たちは、愛することを避けようとしたのではなく、より楽な選択を選んだと言っても間違いではないと思います。想像してみてください。今まで日常的に肉を食べてきたのに、それを辞めるとなると、相当な決意が必要です。変化が求められたのですから。けれども、その労が報われる深い喜びがある・・・神さまが与えて下さる驚くべき感動があると、パウロは確信していた故に、共に生きること・・・愛することを促したのでした。難しいからと言って、共に生きようとしない・・・それは絶対譲れなかったのです。なぜなら、キリスト教会から共に生きる志を取り除いたら、キリストの教会でなくなってしまうからです。私たちも愛すること・・・共に生きる現実へと今日も押し出されているのです。

 

 

(牧師・西本詩生)

 

 

 



『 一緒に仕えるのは神さまのはたらき 』   

伝道の書2:22~23 

コリント人への第一の手紙3:5~9

2024年4月14日(日) 

 

◆ こどもメッセージ

 ロバのバーローと羊のヨーヨーは、いつもケンカばかりしていました。ロバのバーローは、いつもこう言います。「ロバを、馬鹿にしちゃいかんよ。『馬鹿』っていうのは、『馬』と『鹿』って書くんだから、ロバは馬鹿ではないんよ。それにロバは、重い荷物を運べるんよ。『ロバはのろまや!』などと言う愚か者もいるけど、速けりゃ良いってもんでもないでしょ。ロバの仕事は、“安全”、“安心”、“安定”の“3A”が売りなんよ」。すると、必ず羊のヨーヨーが言うんです。「そっちこそ、羊のことを、甘く見てもらっちゃ困るよ。だいたい、こんなにキレイなロマンスグレーの、ナチュラルパーマの生き物が、世界に他におるなら、見てみたいもんよ。あたいらのこの毛のためなら、なんぼでも払うって人が、わんさかおるらしいよ!それから、あれよ!北海道とかいうところでは、あたいら羊の肉がおいしすぎて、“ジン・ジン・ジンギスカ~ン♪” とか歌いながら踊るらしいよ」。そんなやり取りが、いつまでも、どこまでも続いていくんです。

 でもバーローは、一人ぼっちになると、いつも思っていました。「いや、確かに重い荷物は運べるけど、馬みたいに速くは・・・走れんのよねえ。ライオンみたいな力も・・・ないしねえ。もっと速く走れるんだったら・・・、もっと力があるんだったら・・・、少しは様になる仕事もできるんだろうけどねえ・・・」。実は、ヨーヨーも思っていました。「ロマンスグレーっていえば聞こえは良いけど、巻き毛が、ゴミを集めて、放さないのよねえ。羊肉が人気なのはいいけど、やっぱり仲間が食べられるのは、あたいには耐えられん」。相手よりも「自分の方がすごい!」って・・・、「自分の方が役に立つ!」って・・・、そうやって言えば言うほど、二人とも自分の嫌なところ、自分のダメなところが気になってしまうんです。だから、それを忘れるために・・・、それが気にならないように・・・、もっともっと人にほめられないといけない・・・、認められないといけない・・・って、二人は必死だったんです。

 そんなある日、ヨーヨーのいた山にある人が来て、そこに集まった人々にこんな話をして聞かせました。「ここに一匹の羊がいる。この羊が、100匹の中から迷い出てしまった羊だとしよう。あなたがたの父なる神は、他の99匹の羊を捨て置いてでも、この迷い出た1匹を捜しに行き、見つけたら大喜びされるお方だ」。ヨーヨーはビックリしました。その人は、羊の“毛”をほめるわけでも、羊の“肉”が好物だと言うのでもなく、ただ迷い出てしまった羊が1匹でもいたら、その羊を必死に探し出し、見つけて喜ぶっていう話をしたんです。

 また他の日、二人の男の人が、バーローの小屋に来て、バーローを連れ出しました。すると、その男の人たちに「先生」って呼ばれている人が、バーローの背中に乗りました。歩き始めると、たくさんの人たちが自分たちの服を地面に敷いて、バーローの歩く道を作ってくれました。そして、「ダビデの子にホサナ!いと高きところにホサナ!」って騒ぎ始めたんです。こんなにたくさんの人の注目を浴びたのは初めてでしたが、バーローは心の中で思いました。「これってぼくで良かったんやろうか?速く走れて、毛並みもきれいな馬の方が良かっただろうに・・・」そしたら、背中に乗っている人がそっと教えてくれました。「わたしは昔から、あなたに乗ることになっていたんだよ」って。「速く走れるから・・・」とか、「毛並みがいいから・・・」とか、そんな理由は一切言わず、その人はそう言いました。

 何日かして、バーローとヨーヨーは、道でバッタリ会いました。でももう、お互いに「自分の方がすごい!」とは言いませんでした。何かができるからということでも、見かけがいいからということでもなく、ただそのままの自分を必要としてくれる方に出会ったからです。本当は、どっちもすごくなんかないことが、わかったからです。どっちもすごくなんかないことがわかった時に初めて、二人は、ただそのままに必要としてくれる方の、その働きのために、実は二人で一緒に用いられていたことを知りました。バーローが荷物を運ぶことも、ヨーヨーが羊飼いのもとできれいな毛を生やして生きていることも、それは自分たちの働きではなく、神さまの働きのためだったことを知ったんです。そして、そう考えれば、二人はずっと仲間だったんです。そんな風に「自分なんか、ちっともすごくないや」って、そう思わせてくれた方・・・。「あの人は、ナザレのイエスだ」って、誰かが言っていました。

 

◆ “出遅れ”で始まった南部バプテスト連盟の日本での伝道の働き

 1889年に米国南部バプテスト連盟国外伝道局は、マッコーラム、ブランソン二組の宣教師を派遣しました。これらの宣教師の働きによって、九州を中心とした伝道が始まり、1903年には西部組合が結成されました。西部組合は、第二次世界大戦直前に、日本基督教団に合同し、国家総動員による戦争協力体制を担いました。1947年4月、E.B.ドージャー宣教師の呼びかけにより、福岡・西南学院教会で日本バプテスト連盟結成総会が持たれました。参加したのは、日本基督教団から離脱した旧西部組合系の16教会でした。結成された連盟は、「全日本にキリストの光を」のスローガンを掲げ、まず県庁所在地に伝道所を開設し、その教会が拠点となって周辺都市に伝道を広げる開拓伝道に取り組みました。

 これは日本バプテスト連盟のHPに『日本バプテスト連盟の沿革』という題名で載せられた文章の一部です。ここに書かれていたように、日本バプテスト連盟の宣教は、1889年にアメリカの南部バプテスト連盟より派遣された宣教師、J.W.マッコーラムとJ.A.ブランソンの両夫妻が、横浜へと上陸し、神戸で宣教を開始したことで始まっていきました。しかし、横浜に上陸したのに、神戸で宣教が開始され、その後九州が宣教の拠点とされたというのは、どういうことでしょうか?それは、先に日本での宣教を開始していた北部バプテストとの協定で、南部バプテストは神戸より西で宣教をすることが決められたからでした。つまり、先に日本に上陸した北部バプテストは、当然関東を中心にその宣教活動を開始しており、南部バプテストの宣教師たちは、いわば“出遅れてしまった”ために、初期の宣教拠点を九州とせざるを得なかったというわけです。なお、その“出遅れ”の原因は、なんとマッコーラムやブランソンよりも30年も前に、日本へ送り出されたJ.Q.A.ローラー夫妻を乗せた船が太平洋上で難波し、消息を絶ってしまったということにありました。ですから、この事件は、南部バプテスト連盟にとって、宣教計画の“計画倒れ”と言わざるを得ない出来事だったでしょう。しかも、そのローラー夫妻派遣の年というのは、あの北部バプテストの最初の宣教師であるJ.ゴーブルが神奈川に到着した年と同じ年だったのです。の意味では、この事件さえなければ、北部バプテストに対して大きな遅れを取ることはなかったかもしれないのです。ただ、それは飽くまで、組織としての、人間的観点からの捉え方でしかないことは言うまでもありません。神さまの御業においては、このローラー夫妻の存在は、マッコーラムやブランソンと同じように重要だったはずです。いや、聖書の言い方で言えば、同じように“取るに足りなかった”と言った方がいいのかもしれません。

 

◆ 人の“成果”ではないことを忘れない

 ぼくは、教会での働きにおいて、無意識に自分の“成果”を見出し、主張しようとしてしまうことが多々あります。自分のおかげで誰かが教会の集会に来たとか、クリスチャンになる決心をしたとか・・・、良い説教をしたとか・・・、雪かきをいっぱいしたとか・・・。そして、個人レベルだけでなく、教会や教団レベルにおいても、教会員数が増えたとか、新しい教会が増えたとか・・・、どうしても目に見える“成果”を求めたくなります。確かにそれらは喜ばしいことです。キリストの福音が広がり、伝えられていることの表れです。でも、それらは決して人間の働きの“成果”ではないし、神さまの御業は、ぼくら人間が求めるような形でなされるとは限らないのです。

 

◆ 善意から起こった派閥闘争に怒るパウロ

 「わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である」。パウロはコリント教会の人々に向けて、そう書き送りました。アポロという人物は、使徒行伝18章に登場しますが、どういう人物であったかという詳しくいことはよくわかりません。まあ、パウロがこんな風に名前を引き合いに出して語るくらいですから、少なくともコリントの教会に対して影響力をもった人物であったということは間違いないでしょう。もしかしたら、パウロとはちょっと色の違う伝道者だったのかもしれません。いずれにしても、その二人の名を挙げながら、人々は「わたしはアポロに」「わたしはパウロに」と、派閥闘争を起こしてしまうのです。何かわざわざ分裂しようとして起こしたわけでも、誰か黒幕がいて、そのように仕掛けたというのでもなかったでしょう。それぞれがパウロ先生との親しき関係の中で、アポロ先生に対しての深い信頼のゆえに、それぞれの師を守ろうとしただと思います。つまり、それは善意から出た対立で、でも、だから余計に厄介だったはずです。そんな人々に、パウロは語り掛けます。「アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か」と。この言葉、原文では、「いったいアポロとは何なのか。またパウロとは何なのか」となっています。「何者」と、人として扱おうともせず、「何なのか?」と問うたんです。つまり、パウロにとっては、彼らが評価する自分たちなど、どうでも良かった。むしろ、そうやって評価されることが、腹立たしかったのです。「いったい彼らは何を聞いていたのか・・・」と。

 

◆ 自らを「取るに足りない」と言えることが福音

 ただ、注意したいのは、パウロは自らを卑下して、「自分たちは何もしていない」と言おうとしているのではないということです。パウロのこの言葉は、一見、パウロが人の業を完全に否定しているようにも聞こえますが、そうではありません。自分は「植え」、アポロは「水をそそいだ」と言い、人々を信仰へと導いたことに、パウロは自ら言及しています。パウロも、アポロも、確かに働いてはいるんです。彼らの働きが、そこにはあるんです。でも、その働きも・・・、その働き人も・・・、神さまの前には「共に取るに足りない」と、パウロはそう言い切るのです。これは、謙遜の言葉などではないでしょう。むしろ、自分たちなど「取るに足りない」というそのことこそが、パウロにとっては福音だったのです。彼を支える信仰の確信だったのです。そう言わしめる、確固たる理由となってくださる方が確かにそこに共におられ、彼はその方に出会わされたからです。

 

◆ そもそも取るに足りないに決まっていたパウロの働き

 パウロは、世界各地を巡りながら、まさに「植え」、そして「水をそそぎ」続けた人物でした。彼は、多くの人々に福音を告げ知らせ、自分自身に復活のキリストが出会ってくださったことの喜びを証しし、そして各地に教会を建てていったのです。パウロにとって、この「植え」そして「水をそそぐ」という働きは、まさに自分自身に与えられた召命そのものだったわけです。ですから、パウロは「植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない」と説明しながらも、両者は「それぞれその働きに応じて報酬を得る」とも語りました。パウロの中には、「主から与えられた分に応じて仕えて」いけば、神さまがその働きに応じて、きちんと報いてくださるという確信があったのです。だから、なおさら、彼は自信満々に、自分など「取るに足りない」と言い切るのです。そこに神さまが働かれていることを喜び、その神さまの働きに自分が用いられていることを喜んでいたからです。

 ふり返れば、かつてキリストと、キリストを信じる者たちとを、全力で迫害していたパウロは、その迫害のために向かったダマスコへの途上で、復活のキリストと出会わされるわけですが、その時キリストからこう語り掛けられたのです。「さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」と。そう語られたのは、まだ何も変わってなどいない、キリストを迫害しているままのパウロでした。彼が何か心を入れ替えたから・・・というのでもなければ、彼が「これからは翻って生きる」と宣言したから・・・というのでもなく、まだ何も変わらないままのパウロを、イエスさまは既に必要とし、自らの働きのために用いようとされていた・・・、いや、既に用いておられたのです。それが、パウロの原点でした。迫害していた時から用いられていたというわけですから、「取るに足りない」ことなど当たり前なのです。「取るに足りない」どころか、足を引っぱっていたのです。つまり、パウロにとっては、自分など「取るに足りない」ということは、どうしようもないままの自分を、主が必要とし、その働きに用いてくださっていたことの証しだったのです。そして、その主との出会いの喜びを・・・、自らを「取るに足りない」と言わしめてくださった主との出会いの喜びを・・・、彼は世界中の人々に伝えずにはいられなかったのです。

 

◆ 神さまの働きに一緒に仕える、取るに足りない仲間として

 3月にもたれた定期総会で、今年度の教会テーマを「神われらと共にいます~証しを持ち寄ろう・心燃やされて前へ~」と定め、会堂の前にも掲げました。この教会のために、人間の働きとして、何ができるのか・・・というのではなく、この教会を通して神さまの働きが・・・、神さまの御業が・・・どのように現わされてきたのか・・・、現わされていくのか・・・という思いで、この教会の歩みをもう一度見つめ直していきたいと願っています。そして、ぼくらは、どのように“神さまの働き”に用いられてきたのか・・・、そして、これから用いられていくのか・・・、この一年かけて、大いに証しし合い、分かち合っていきましょう。そして、そのことで、神さまの前にあっては、ぼくらは互いに「取るに足りない」存在でありつつ、“神さまの働き”を共に担う仲間であり、同労者であることを喜び合っていきたいと願っています。「わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である」。

 

(牧師・石橋大輔)

 

 


『 十字架という結び目 』

エペソ人への手紙2:14~16

コリント人への第一の手紙1:10~18

2024年4月7日(日)

 

子どもメッセージ

 春休み・・・楽しかったかな?多くの幼稚園・学校は明日、明後日から始まると聞いています。この春休み、我が家では風邪も流行りましたが、ドラえもんが大流行しました。そして、ドラえもんのことで僕は時々考えることがあります。「なぜジャイアンはのび太をからかうんだろう」と。どうやら、これを考えるのは僕だけではないようです。ネットを検索すると、この事についての記事がズラーっと出てきました。ある記事ではこう言います「そんなに難しく考えなくていい。単純にストーリーを面白くするためにそうしている」と。確かに・・・ジャイアンがのび太をからかい→のび太はドラえもんに泣きつき→ひみつ道具をおねだりし→その秘密道具が紹介される・・・このような流れでストーリーが面白く紹介されていきます。また違う記事はこのようなことを語っていました。「ジャイアンのイタズラがばれた時には、怖い母ちゃんに大根でたたかれ、父ちゃんには切れられる。ジャイアンもそれなりのストレスを抱えている。友だちの間では無敵のジャイアンでも、家に戻ればジャイアンは弱い。本当は弱さを持っているジャイアンだけど、それを誰にも見せちゃいけないと、無意識に思い込んでいる。本当はジャイアンもいいヤツなんだけど、強がって背伸びをしている。」・・・なるほど、なるほどと思わされながら、記事を読みました。

このようなことを考える時に、僕が小学生4年生の時のある事を思い出しました。いつも僕は、クラスの2人と仲良くし、よく3人でつるんでいました。そして、ある時から、3人でいる時には、なぜかSくんという別の友達をからかうことが習慣となりました。それこそ、ドラえもんではないですが・・・面白がってS君をからかっていました。最初は悪気がない「ただのふざけ」であったと思います。けれども、S君はそのようなからかいを受け、良い気になりませんでした。当然のことです。ある日、S君のお兄さんに仲良し3人の私たちが呼びだされ、「弟のSに優しくしてくれないか」と頼まれました。1-2週間はS君に何もちょっかいを出さずに過ごせたんですが、S君のお兄さんから言われたことはすぐ忘れてしまいました。それからさほど時間が経たない内に、今度はうちら仲良し3人がS君の家に呼ばれ、お泊り会をすることになりました。とても、楽しいお泊り会でした。そして、その夜S君がからかわれたことは嫌であったことを話してくれました。何も隠さず素直に物事をお互いに話せ、うちら3人は謝り、お泊り会の後は、S君とも仲良くしながら過ごしたことを思い出します。

今考えてみれば、この事の背後で、いろんなことが起きたのだろうと思うのです。あの時S君は、うちら3人にからかわれることを嫌だと思って・・・本当だったら仲良くできるはずだと思って・・・お兄さんに相談しました。そしてお兄さんは、恐らくS君と一緒に悩んだんだと思います。多分学校の先生や家の人にも相談したのでしょう。そして、思いついたのがお泊り会でした。気を張らず、誰も背伸びしなくていい・・・皆が素直になれる、お泊り会が準備されたのです。この一連の動きがあったから、物事がさらに大事にはならなかったのです。

これを思い返しながら考えるのです。どうしたら、私たちは素直になれるのでしょう?今日の聖書は、まさに人と人の間でいざこざが起きている状況を物語っています。そして、その人たちに勧められたのは、イエスさまの十字架を思い出すことでした。イエスさまの十字架の前であれば、人は素直になれる・・・この確信があったからそう勧められたのです。今日も私たちは十字架の前に呼び集められています。イエスさまの十字架を前にすると、背伸びしなくていい・・・気を張る必要がないのです。素直になってみないか、と招かれているのです。

 

人と人との間に優劣がつくられる:こんなはずではない

静かな住宅街のど真ん中にある二つの溜池を前にして、「これらを見て何を感じますか?」と問いかけられたことがあります。池と池の間には堤防があり、そこには2Mほどの段差がありました。よく見ると、二つの池は小川でつながり、水は池に溜まるだけでなく、流れていくものでした。二つとも大きめの池でありましたが、特に目立ったことは私の目に映りませんでした。しかしながら、問いかけて下さった方にとっては、とても複雑な思いを抱かせる風景であることが分かりました。説明をしてくださった彼は、近くの被差別部落出身の人であり、被差別民の解放運動を進める水平社の一員でした。彼の説明はこういうものでした「私たち(被差別民)は、代々、下流の池の水しか使うことができなかった。“汚れ人”呼ばわりされる私たちは、“汚れの水”しか使うことができなかった。考えてみてください。ここに生まれただけで、一生“汚れ”呼ばわりされるのです。もう一度聞きますが・・・これらの池を見て何を感じますか?」。このような説明を受け、今なお続く“見えない差別”について語っていました。なぜこのようなことになってしまうのだろうか?・・・私たちはこんなはずではなかったのでは?・・・という深い問いかけを受けた出会いでした。

 日本の歴史を観ると、被差別民の起源はとても古く、中世まで遡ると言われています。けれども、その差別を先鋭化したのは、徳川幕府時代に確立された身分制度だと言われています。人と人との間に優劣をつける身分制度です。優劣をつけたくなるのが私たち人間のクセなのでしょう。1922年になると、被差別部落民の解放運動・・・貧困と差別からの自由を求める「水平社」の設立に至りました。その際に水平社宣言が紡がれ、一部を読み上げたいと思います。「吾々(われわれ)がエタである事を誇り得る時が来たのだ。吾々(われわれ)は、かならず卑屈(ひくつ)なる言葉と怯懦(きょうだ)なる行為によつて(よって)、祖先を辱(はずか)しめ、人間を冒涜(ぼうとく)してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、何(ど)んなに冷たいか、人間を勦はる(いたわる)事が何んであるかをよく知つて(しって)ゐる(いる)。吾々(われわれ)は、心から人生の熱と光を願求禮讃(がんぐらいさん)するものである(つまり、人間の尊さや暖さを大切にする)。水平社は、かくして生れた。」この宣言をよく見ると、水平社が目指すものは、全ての人の尊さや暖さが大切にされることです。自分たちの歴史を顧みると、人の冷たさを知らされる日々であったかもしれないけれども、本来人はそんなはずではないという強い意志が伝わってくると思うのです。

 水平社の創立メンバーを観ると、仏教の教えが深く影響していることが伝わってきますが、不思議にも、水平社のシンボルに選ばれたのは、茨の冠でした。十字架上のイエスさまの茨の冠です。

 

コリント教会:こんなはずではない

 今日からしばらく、コリントの教会に送られた、パウロの手紙を読み進めていきます。パウロはコリントという町に1年半滞在し、その間に教会の基礎を作り上げることに努めました(使徒18章)。そこからエペソに向かったのですが、旅立ってから間もないうちに、コリント教会での様々な問題がパウロのところに報告されるようになりました。大混乱にあったコリント教会を、何とか初心に返らせることはできないだろうかという思いで、パウロはこれらの手紙をコリントに送りました。

今日の聖書を読めば、コリントが直面していた大問題がすぐに伝わってくると思います。教会が分裂していたのです。互いに受け入れ合うのではなく、許し合い、祈り合うのでもなく・・・かえって競い合い、争い合っていたのです。結果的に人と人との間に優劣が生じ、喜びたくても、喜べず、ギスギスした教会であったと思います。10節から読み上げます「さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める(勧告する)。みな語ることを一つにして、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。わたしの兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされている。はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合っていることである。キリストは、いくつにも分けられたのか。」それぞれのグループが指示する“大先生”によって、分裂していたということです。「わたしはキリストに」と言い張るのは、一見正論に聞こえますが、自分の価値観を正当化するため・・・つまり自分を高めるために、キリストの名前を道具として使っていたのでしょう。

この分裂が決して笑って済ませることのできない、深刻な問題であったことは11章30節を読めば分かります。「あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。」(新共同訳)一番弱い立場にある人たちが置き去りにされていたのです。だからこそパウロは、そうやって争い合うことに何の意味があるのだ?・・・それがイエスさまの教会なんだろうか?こんなはずではないでしょ!・・・と手紙の出だしから、最大限の愛を込めて訴えたのです。

パウロはさらに続けてこう言いました「キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。」言い直せば、こうなると思います「私は競い合うことを促すギリシャ哲学・・・知恵の言葉を語ったのだろうか?難しいことは語ってないはずだ。一年半語り続けたのはたった一つのことだ。十字架の福音です。それを思い出しなさい。イエスさまの十字架を思い出してほしい」と。

 

十字架の前に招かれる

十字架は、全地全能であるはずの神さまが、何もできず、誰も救えず、愚かな弱りはてた姿で息絶えたところです。全人類が最大限の祝福を受けるために、神さまご自身が呪いそのものになったのです。あなたと私がまるごと愛され、喜ばれ、罪赦されるために、神さまが十字架にかかったのです。皆が本当の命を得るために、十字架上でイエスさまが自らの命を配ったのです。十字架を前にすると、無限の愛を知らされます。アガペーに包まれていることを知らされるのです。絶対的な肯定を知らされるのです。

ですから・・・十字架を前にして、背伸びしなくていいのです。気を張る必要もありません。巣のままでいいのです。弱さも愚かさも抱えたままで、何も隠さず十字架の前にい続けることに招かれているのです。誰かを踏み台にしてまで、強がり、高ぶらなくていいのです。違いを持つ私たちが同じ心、同じ思いになって、堅く結び合うことは理想なのでしょう。けれども、十字架の前では人は素直にされ、そこで結ばれるのです。神さまが結んでくださるのです。今日も、私たちは十字架の前で立ち続けるよう招かれています。素直な自分になってみないかと招かれているのです。

 

 

 

(牧師・西本詩生)