『 すべての生命がつながっている、

だから自分のように愛しなさい 』

イザヤ書11:6~9

マタイによる福音書22:34~40

2024年2月25日(日)

 

◆子どもメッセージ

 金沢から来ました杉山といいます。約4年ぶりに札幌教会に来ることができました。久しぶりの人も、始めましての人も、このように会うことができて嬉しいです。

 今日、みんなの前でお話しできることになって、どんなことを話そうかなって色々考えました。話したい事や、話すべきことは色々あるし、みんなも聞きたいような話が色々あるかもしれません。でも、今日だけしかチャンスがないので、私がずっと考え続けていること、最近になって気が付いて、本当に大切なことだと思っていることをお話ししたいと思いました。

考え続けていることは、この世界が何かおかしいんじゃないか、ということです。何がおかしいかというと、生命が大切にされていないことです。日本でも、他の国でも、誰かがお金を設けたり、もっと強い力をもったりするために、人の生命が犠牲にされている。特に今、ガザというところでは、たくさんの子どもたちもミサイルで攻撃されたり、食べ物がもらえないようにされたりして、死んでいっている。そんなのおかいしと思うんです。

 人だけじゃなくて、他の生き物も大切にされていません。今、地球上では毎日100種類の生き物が絶滅していると言われています。絶滅するということは、もう二度と、この世界でその生き物に出会うことはできない、ということです。たくさんの生き物が生きられない世界になっている。それもおかしいと思うんです。

こんなのおかしい。こんな世界は神さまが創った世界じゃなくなっている。そう考えて、じゃあ神さまはどんな世界を作ったのか、と考えて、勉強しました。すると、神さまが創った世界は、本当はたくさんの生命がつながりあっている世界だった、ということがわかってきました。

たとえば、私たちの体には、目には見えない小さな生き物(微生物)がたくさんいます。その数、なんと100兆個以上! 数えきれないほどたくさんの微生物が私たちの体の中や皮膚で生きています。それは全部が良いものではありませんが、その微生物がいてくれることで、私たちは元気に生きることができます。逆に微生物にとって、私たちの体は食べ物のある安全に生きられる場所になっています。私たちが生きているだけで、私たちの体の中だけでも、たくさんの生命とつながっているのです。

 他にも、オオカミとシカの関係からも生命のつながりを学ばされました。今から100年くらい前、アメリカのある地域で、人間がオオカミを絶滅させてしまったことがありました。オオカミがいなくなったので、襲われることがなくなったシカはどんどん増えていきました。すると、シカは大量の植物を食べてしまって、森はどんどん荒れていき、木が残っているのは5%ほどにまで減ってしまいました。このままではシカも、そこに暮らしていた他の生き物も、生き続けることができなくなってしまいます。そこに再びオオカミを連れて来たところ、緑豊かな森が復活しました。もちろん、オオカミに食べられるシカもいます。でも、オオカミもシカも、そこで絶滅することなく生き続けています。生き続けるために、お互いが必要な生命としてつながっているのです。

 だから、どんな生き物でも自分だけで生きていくことはできないし、この世界が「弱肉強食」だから強いものが弱いものを好きなようにできる、なんてこともないんです。神さまが創った世界は、生命がつながりあっていて、助け合っていたり、バランスをとって色んな生き物が豊かになっていったりするような世界なんです。

だから私たちは、神さまが愛してくださった自分のことを大切にするように、全ての生命を大切にするんです。すべての生命がつながりあった世界を神さまが創られたこと、世界は本当はそんな姿であるべきだ、ということを、ぜひ覚えていてください。

 

◆様々な生き物がつながりあっていた世界

 すべての生命がつながっている。近代化された社会に生きる私たちには、そのことを普段の生活から感じることは難しくなっています。けれども、生命のつながりは長い間、世界中の人類が感じながら、それを大切にして生きてきたものでした。

ある本の中で、アマゾンのジャングルで暮すアチュアル族という民族のことが紹介されていました。アチュアル族の人びとは、ジャングルに生きる無数の動植物のほとんどが、人間の魂に似たものをもっていると考えていました。そのため、他の動物や植物をも人間と対等に、親密なつながりをもつ相手として見なしています。アチュアル族にとって、自分たちは森を共有する多様な生物からなるコミュニティの一員であり、そのコミュニティと良い関係を保つことが、生きていくために不可欠なことだったのです。

 このような感覚、あるいは信仰は、世界中の民族に見られるものです。私たちの身近なところでは、アイヌの人々の生活や信仰にも、やはり他の生き物との独特なつながりを見出すことができます。また、和人の信仰や文化においても、そこには他の生き物とのつながりが感じられることでしょう。

 聖書では神と人との関係が中心であるため、人と他の生き物とのつながりについては中心的なメッセージではありません。それでも、神が全ての生き物を創られたこと、それらの生命にも心を配っておられること、約束された神の国が人間だけの世界ではないことなどからも、古代のユダヤ人が他の生き物とのつながりをもっていなかったわけではなかった、ということを想像することはできます。

 人も含めた様々な生命が互いにつながりあっているということは、客観的な事実であり、かつ、人が自分も他の生き物と共に生きるコミュニティの一員であると自覚しながら生きてきたことも、確かなことであったでしょう。それが本来の神が創った世界のあり様だったのではないでしょうか。

 

◆人と自然をモノ化させた西洋社会

 ところが今、世界中で生命のつながりがズタズタに切り裂かれており、その傷跡は至るところに広がっています。

 他の生き物とのつながりは、環境破壊という形で切り裂かれてきました。その一つである気候変動は、最低限の目標であった1.5℃の気温上昇さえ守ることが難しくなっており、異常な暑さや極端な気候を世界中で発生させています。

現在、私たちは歴史上かつてない「大量絶滅」の時代に生きています。一年間で約4万種の生き物が地球上から永遠に姿を消しており、その絶滅の原因は、ほぼ100%人類の行為にあります。ここにも生命のつながりの深刻な断絶が現れています。

 このようなことは、他の生き物を人よりも価値の低いものであり、人が自由に搾取することができるものだと見なすこと、つまり自然を「モノ化」していく世界観の変化によって引き起こされました。そこではもはや他の生命とのつながりは失われ、それを守ろうとする意志も意欲もなくなってしまいました。

 しかし、モノ化されてきたのは他の生き物や自然だけではありません。愚かなことに、人は人さえも「モノ化」してしまいました。人が使い捨てにされるようなこと、優劣が付けられ、勝ち組・負け組に分断されることなど、日本においても人の「モノ化」は目に余ります。

 そのような人や自然の「モノ化」を進めていったのは、ヨーロッパ諸国でした。約500年前から世界各地を植民地化し、人からも他の生き物からも暴力的に搾取し続け、経済的にも軍事的にも巨大な力を蓄えていきました。そのプロセスは、植民地化が終わったはずの今でもなお続いています。

 そしてその延長線上に、現在行われているイスラエル国家によるパレスチナ・ガザへのジェノサイドがあります。これは国家間の戦争ではなく、圧倒的な武力をもった国家が、その支配下にいる一つの民族を虐殺し、追放し、土地を乗っ取ろうとする民族浄化政策の一環です。

 世界各地・各国から、イスラエルへの非難の声が上がっていますが、一貫してイスラエルを擁護し、支援しているのは、植民地化を行ってきたヨーロッパ諸国とアメリカです。それらの国々は「キリスト教国」と見なされますが、それは神が良しとされることなのでしょうか。教会は植民地主義に加担し、擁護してきましたが、それはイエスに倣う歩みであったのでしょうか。

 

◆最も重要な掟~自分のように隣人を愛すること~

 イエスは、「どのいましめがいちばん大切なのですか」という問いに対して、このように答えました。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。(マタイによる福音書22:37~40)

 『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これは他の翻訳(聖書協会共同訳)では、『隣人を自分のように愛しなさい。』と訳されています。ここでの「隣人」とは、自分にとって近しい人だけを指すのではない、ということは、ルカによる福音書の中でイエスが語られている「善きサマリア人のたとえ」からも、イエスの他の言動からも明らかです。イエスが誰かをモノ化することを肯定することなど、私には想像もできません。むしろイエスは、モノ化され、見捨てられた人びととつながり、モノ化する世界とは異なる世界――神の国――を現し、宣べ伝えたのです。

 また、これは私の勝手な考えかもしれませんが、ここでの「隣人」を人間に限らず、他の生き物を含めていい、と思います。そのように考えることが、生命のつながりが引き裂かれた世界にとって必要なことであり、神によって創られた世界の本来のあり様にも適うことでもあると思うからです。

 隣人を自分のように愛すること。それが神を愛することと並んで、いちばん大切ないましめである、とイエスは語られました。それはつまり、隣人を自分のように愛することが抜け落ちたならば、他のどんなことが行われていようとも、神を愛し、イエスに応えることにはならない、ということです。それを軽んじたならば、教会はキリストの体ではなくなってしまうのです。

 隣人を自分のように愛すること、すべての生命を自分の隣人として愛すること、そこに私たちは立ち返っていかなければなりません。それは世界各地の人びとが実際に歩んできたことですが、欧米のキリスト教国がその価値を否定し、消し去ろうとしてきたことでもあります。だから、そこに立ち返るためには、ヨーロッパ中心主義から離れ、目を向けられてこなかったこと・もの・人に目を向けることが必要です。幸い、私たちの周りにも、この世界の各地にも、生命のつながりはまだ辛うじて残っており、隣人を自分のように愛するという実践も見出すことができるはずです。

 

◆Ubuntu~あなたがいるから、私がいられる~

 最後に、その一つの例として、南アフリカの言葉を紹介します。南アフリカのズールー語に<Ubuntu>という言葉があります。日本語に対応する言葉はありませんが、訳すとすれば、「あなたがいるから、私がいられる」という意味になるそうです。

 ある人類学者がこの言葉を世界に向けて紹介したそうです。その学者は、ある村の近くの木に子どもたちが好きな食べ物を結びつけておきました。そして村の子どもたちに、「一番先にあの木まで走りついた人が全部食べられる」と言いました。それから彼はスタートの合図を告げました。すると子どもたちはバラバラに走り出さずに、皆が手をつないで走り出したそうです。そして、とうとうその木に到着して、その食べ物をみんなで食べました。

 その学者は子どもたちにこう尋ねました。「誰かが一番早く走り着いたらこれを一人で全部食べられたのに、どうしてそうしなかったの?」 すると子どもたちはみんなで「ウブントゥ」と叫び、「他の人がみんな悲しいのにどうして一人だけ幸せになれるんですか?」 と言ったそうです。 

 <Ubuntu>——「あなたがいるから、私がいられる」。人類はこのような思いを共有して、この地球上で生き抜いてきたのではなかったでしょうか。人と人、さらには人と他の生き物・自然とがつながりあい、その生命のつながりがあったからこそ、お互いに生き続けることができた。豊かな自然を育み、生命を守ることができた。それが神の創った素晴らしい世界であった。

 「弱肉強食」とか、勝ち組と負け組がいる世界などというものは、本来の世界の姿ではありません。そのような世界を作ってしまったことは、神への背きであり、イエスへの裏切りでした。だから私たちは、そうではない世界――すべての生命がつながっており、その生命を自分のように愛することができる世界――に目を向けたいのです。

 

(元当教会副牧師・杉山望)

 

 


『 もしもここにいたのなら・・・ 』

エレミヤ書29:11

ヨハネによる福音書11:17~27

2024年2月18日(日)

 

子どもメッセージ

 今日は鼻で嗅ぐ、臭いと香りについてのお話からはじめます。これ(鉛筆の削りくず)を嗅いで、何だと思いますか?これを嗅ぐと、何か思い出すことはありませんか?思い出の場所・・・あの楽しかった思い出・・・あるいは、あのつまらなかった時・・・。僕は、鉛筆の削りくずを嗅ぐと、昔住んでいた家の勉強机を思い出します。机の上の棚に青い鉛筆削り器が置いてありました。その机のすぐ横にあった窓から、勉強の合間に外を眺めていました。あるいは、小学生低学年の時に、担任の先生に、沢山の鉛筆をひたすら削るように頼まれたことを思い出します。

 実は、臭いや香りは、思い出をよみがえらせる力があると言われています(2020年のハーバード大学の研究結果)。香りと記憶は、切っても、切り離せないものであるということです。

 うちの下の娘のりりが生まれてから3か月間入院していました。その間、病院から毎日お願いされたことがありました。お母さんとお父さんの肌に直接触れた布を毎日かかさず持ってきてくださいということでした。つまり、お母さんとお父さんの香りがついた布を、りりの肌に触れさせたのです。りりはその布についた香りを呼吸し、「あ、お母さんとお父さんが一緒にいるんだ」と感じることができたということです。その香りがあると、なんとなく安心するんだそうです。現代の病院でも、香りの力を借りて、患者さんたちを元気づけているのです。ということは・・・石橋牧師にうちらの香りを送ったほうがいいかもしれませんね(笑)。いずれにせよ、香りを通して、何かを伝えて、訴えようとすることは、今日の聖書に通じるものがあります。

 今日の聖書の場面と、またその次に続く場面を観ると(12章1~11節)、「香り」が重要な役割を果たしています。その両方の場面で登場する人たちは同じ四人でした。①イエスさまと、②お姉さんマルタさん、③妹マリアさんと、④お兄さんのラザロさんです。イエスさま以外の3人は兄弟です。

 イエスさまがその3人兄弟のお家を訪ねていた時のことです。マリアさんがイエスさまの足に大量の油を注ぎました。マリアさんは自分の長い髪の毛を使って、油をイエスさまの肌にしみこませました。使った油はただの油ではありませんでした。「香り」の「油」と書いて「香油」と言う特別な油でした。お店で買うと、とても値段が高い、「ナード油」というものです。木と土のような香り、同時にその奥にはほのかな甘さが香るものだと聞いたことがあります。マリアさんが注いだ油は大量であったため、その香りが「家にいっぱいになった」と聖書は言います。

 部屋中がいい香りだったのでしょうが、マリアさんが使った油は、普通だったら、お葬式の時に使われるものでした。ですので、そこにいた人たちは不思議に思ったはずです。なぜ、お葬式の油を使ったんだろうろうと。お花や果物の香りがする他の種類の油もあったはずです。でも、マリアさんはお葬式用の油を使ったのでした。

 そこにいた人たちは、その時点で知りませんでしたが、イエスさまは、その数日後に十字架にかけられてしまいました。十字架で亡くなり、お墓に入れられ、その三日後によみがえりました。このことを考えると、マリアさんが注いだ油は、結果的にイエスさまの葬式のために使われたと言えるでしょう。普通だったら、亡くなられた後に使う油ですが、順序はともかく、葬式の準備をしたのです。

 マリアさんがイエスさまに油を注いだことは、葬式の準備だった言えると思いますが、別の角度があると僕は思うのです。マリアさんが注いだナード油は香りがとても強いものでした。しかも大量でした。もしかしたら、イエスさまが十字架にかけられた時にも、その香りが残っていたかもしれません。そして、イエスさまにとってその香りは、葬式や命の終わりを意味するものではなく、マリアさんとその兄弟たちと過ごした時間を思い出させるものだったのでしょう。うちの娘のりりは、お母さんとお父さんの香りがついた布を嗅ぐことで、無意識に安心しました。同じようなことがイエスさまの十字架で起きたのかもれないと僕は思うのです。誰がみてもイエスさまが十字架で亡くなられたことはとても悲しいことでした。イエスさまにとってとても苦しいことでした。でも、ナード油の香りがあったからこそ、イエスさまは、仲間がいることを思い出したんだと思うのです。香りがあったから、よみがえってくる数々の思い出があり、それに支えられたのでしょう。そう考えると、マリアさんがなさったことはとても貴重なことでした。

 この香りを通して、聖書は何かを私たちに伝えようとしていると僕は思います。普通であればナード油は葬式を意味しました。人生の終わり、亡くなられた大切な人に「さようなら」と「ありがとう」を告げる時・・・どちらかというと下向きになることが頭に浮かびます。けれども、今日の聖書のお話を読んでいると、そのナード油の香りに別の意味が足されたのでした。支えとなり、励ましとなり、元気づける思い出がよみがえってくることをイエスさまが経験したのでした・・・そういう上向きな意味が、ナード油の香りに加えられたのだと思います。

 同じようなことが神さまと出会う時におこるのだと思います。今日もこの礼拝に僕らは集められました。そして、ここで神さまを礼拝するとき、不思議にも、支えと励ましが足されて、加えられ、元気づけられるのではないでしょうか。上向きになるきっかけが礼拝の中で与えられること・・・神さまがそれを備えてくださっていることは、とても嬉しいことだと思うのです。

 

◆ 「死」を意味する香りがすぐ近くまで漂う中で・・・

 子どもメッセージでは、ヨハネによる福音書12章のお話に触れました。今日の箇所は11章ですが、11章と12章を一緒に読むことで浮き上がってくるものがあります。この11章に紹介されているラザロの復活の物語でも香り・・・厳密に言えば悪臭が、お話の重要な要素を担っていると言えるでしょう。「死」または「行き止まり」を意味する臭いがすぐ近くまで漂うなかで、全く思わぬ展開に導かれていくのです。この意味で、子どもメッセージで触れたお話と、重なるのです。

 11章のおさらいをすると・・・お兄さんラザロが重い病気にかかりましたが、その時に、イエスさまは別の村にいました。イエスさまはラザロととても親しく、愛しておられました(3節)。ラザロの命が危ういという知らせ・・・一刻も早く来てくださいという知らせがイエスさまの耳に入るのですが、イエスさまはすぐに旅立たず、そこで2日間もとどまったのでした。いざ、ラザロが住んでいたベタニヤ村に到着した時には、ラザロが亡くなってからもうすでに4日が過ぎていました。

 村に到着するイエスさまに、お姉さんマルタは駆けつけて、思わず口にしました、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。」(21節)。後々、妹のマリアも、同じことをイエスさまに伝えました。「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」(32節)。イエスさまであったら、何とかしてくださるだろうという期待を抱いていたのですが・・・来られるのが遅かったのです。「何でもっと早く来られなかったの?」という意味も込められていたと思います。

 周りの人たちが悲しみ、涙を流しているのを見て、イエスさまは興奮し、涙を流されました。そして、ラザロが葬られていた墓に近づくと、マルタが危惧しました「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」(39節)。けれどもイエスさまは止まりませんでした。墓をふさいでいる石が取り除かれた後、墓に向かって呼びかけました「ラザロよ、出てきなさい」と。すると、不思議にも、布で巻かれたラザロが墓の中から出てきたのでした。

 

◆ 一見期待を込めているように見えるものの

 私たちも、しばしば思わされるのでしょう「もしもここにイエスさまがいたのなら・・・」、「もしもこうでなかったなら・・・」、「もしも神さまがこうなさっていたら・・・」。ある意味で、このような発想は神さまに対する絶対的な期待が込められています。「神さまだったら何とかしてくださるだろう」という期待です。その反面、「もう手遅れだ」・・・「もうあきらめるしかない」と自分に言い聞かせていることがあるように思うのです。私たちが把握できるところでは「もう無理だ」と結論付けるのです。あるいは、これら発言に私たちの焦りや苛立ちも込められているのでしょう。「何で待たされるのだろうか・・・なぜ今すぐではないのだろうか」と。「神さまは私たちの最善の味方であり、私たちを愛しておられるのではなかったのだろうか?」。と思わされることがあるのではないでしょうか。

 神さまの恵みは一方的に送られるプレゼントです。もしも神さまの恵みが予想できるものであれば、それは恵みと呼べないのでしょう。少なくとも、驚きと感動は薄れてしまいます。私たちの側から操作したり、微調整できたりしたら、それは努力の結果となってしまいます。それゆえに、神さまは、神さまの時に現れてくださり、恵んでくださるのです。ほとんどの場合、「まだか、まだか・・・」と待たされるのでしょうけど、神さまの時にみ業が起こされるのです。

 

◆ イエスさまは私たちの葛藤に寄り添いつつ、その次を見せて下さる

 イエスさまは、マルタとマリアのところにたどり着き、彼女たちの葛藤と悲しみを見過ごしたわけではありません。揺さぶられている感情を汲み取り、疲れ果てている魂に寄り添いました。イエスさまご自身が感情をあらわにし、涙を流されたのです。言葉にはしていませんが、イエスさまのその姿から「しんどい思いをさせてしまった・・・すまなかった」という声が聞こえてくるようにも思うのです。

 そして、悲しみと落胆を象徴する悪臭がすぐ近くまで漂っている気配のなか、そこで物語を終わらせなかったのです。誰もが予想していなかったみ業・・・ラザロの復活・・・人々が悲しみから解かれる復活がなされたのでした。想像を超えた形で、物語の続きが与えられたのでした。

 

◆ 受難節

 先週の水曜日から受難節に入りました。イエスさまの復活を祝うイースターから遡って40日間を受難節と呼びます。今私たちはどのようなところを通らされているのでしょうか。マルタのように、なかなか顔を上げることができないのかもしれません。ですので、今日の聖書から流れてくる香りの物語を思い出したいのです。神さまは落胆させず、必ず希望へと導いてくださるということを思い出したいのです。

 

(牧師・西本詩生)

 

 

 


『 ただ一つのこと 』

詩篇23:1~3

ヨハネによる福音書9:1~12、24~34

2024年2月11日(日)

 

子どもメッセージ

 今日はまずある動画をみんなで観たいと思います。

 生まれつき目の不自由な赤ちゃんが、特殊な眼鏡をかけ、初めてはっきり見えるようになる瞬間を撮った動画です。最初は、何が起きているのかが分からない様子ですが、目に映っているお母さんに気づいた時・・・ものすごい笑顔になっています。初めて自分の目でお母さんを見て、心から嬉しく喜んでいることがまっすぐに伝わってきます。この赤ちゃんのはじけんばかりの嬉しさは、今日の聖書のお話の鍵であると僕は思います。ですので、この満面の笑みを覚えておきたいと思います。

 今日の聖書のお話に、生まれつき目が見えない人が登場します。この人が主人公です。彼は目が見えませんでしたが、時々こんなことを思わされたと思います。「僕が、目が見えないのは確かだけど、周りの人も見えていないのではないだろうか。少なくとも、僕のことは見えていない・・・」と。彼は、毎日、村で一番人通りが多いところに座り、通りかかる人に助けを求めていました。周りからの助けがないと、食事もままならなく、生活も成り立たなかったのでしょう。恐らく、通りかかる人も彼が助けを必要としていることを分かっていました。けれども、彼を助ける人はほとんどいませんでした。彼は目で見ることはできませんでしたが、人が近くに来られることを足音や地面の振動で感じたことでしょう。そして多くの場合、通りかかる人は、彼に近づくと、早歩きになったり、遠回りをしたり、見て見ぬふりをしていたのです。こういう状況が毎日毎日続くわけですから、彼は心の中で思ったことでしょう「僕は目が見えない・・・このことは分かるけど、僕は透明人間なのだろうか・・・」と。彼は、周りに無視されることに慣れてしまっていたのかもしれません。

 ある日、大勢の人たちが彼の目の前に立ち止まりました。ある声が聞こえてきました「先生。この人が、目が見えないのは、誰が悪いことをしたからですか?彼が悪いことをしてバチがあたったのですか?それとも彼の親のせいですか?」。目が見えない彼は思ったはずです・・・「またこのくだりかぁ・・・僕に聞こえていないとでも思っているのだろうか?・・・失礼な話だ。どうせ僕は透明人間なんだ。」と。このようなたぐいの話は何度も聞かされてきたことでしょう。言い返したいことは沢山あったのでしょうが、何とかこらえました。でも、心の中ではこのように声をあげていたのだと思います。「親が何か悪いことをしたから、そのバチが親ではなく、その息子に被るだと!?僕が何かヘマをしたから、生まれた時から見えないだと?たとえいいことであろうと、そもそも生まれる前に何もできないではないか!?」

 そう考えていると、先生らしき人が答えました。「誰も悪いことをしていない。彼も、彼の親もしていない」。これを聞いてびっくりしました・・・「初めてこのようなことを聞いた・・・『誰も悪いことをしていない。親も僕も悪くないんだ。』・・・」。予想していなかったこの答えを消化しようとしていたところ、誰かが近づいてきました。どうやらあの先生らしき方です。地面を掘りあさる音がしました。「うん?唾の音か?」。気づいたら、その人が自分の目に何かを塗っているのです。もちろんびっくりしました。いきなり、知らない物を塗られるわけですから。「これは・・・やけに土の香りがする。泥だろうか」と思ったはずです。彼はびっくりすると同時に、目の前にいる先生のことが気になってしょうがありませんでした。今まで、ほとんどの人は近寄ろうともしないのに、この先生は僕に手を触れてくれる。僕は・・・近寄ってもいい、自分と同じ人なんだと、この先生は本気で思ってるんだなぁと気づかされたのです。そう考えていると、先生らしき声が語りかけてきました、「シロアムの池に行って洗いなさい」と。いろんなことを思い巡らしていたので、少し困惑していましたが、言われた通り池に向かいました。

いざ池にたどり着き、水をすくって顔を洗いはじめました。目に泥が塗られてすでに時間がそれなりに経っていましたので、目に塗られたものは渇いて、なかなかおちません。水をすくっては、目の周りをこすりました・・・すると・・・何か感覚が普段と違うのです。「何だ、これは?」と彼は思いました。さらに洗うと、何と・・・目が開き、目が見えるのです! 彼は周りを見回しました。「これは、夢なんだろうか?」。さっきの動画を思い出してください。赤ちゃんのように最初の数秒は何が何だか分からず、困惑したことでしょうけど・・・目が見えることに気づいた時、嬉しくてしょうがなかったはずです。「なんて美しいんだ・・・こんなにも世界は色鮮やかなのか・・・池に映っているこの喜んでいる人は誰だ?俺じゃないか。」。あまりにも嬉しくて、しばらく興奮したと思いますが、少し落ち着きを取り戻したところで、あのイエスという先生を見つけようとしましたが、姿はどこにもありませんでした。ひとまず家に戻ることを決め、まだ慣れてはいませんでしたが、目でも足元を確かめながら村に向かいました。

 村に近づくと、村人たちは彼のことに気づきました。「おい、あの彼は目が見えていないはずではないか。こっちに目線を合わせて、元気に挨拶をしてくるぞ。あたかも見えるように、すらすらと前に進んでいる・・・どういうことだ。」あまりにも普段の様子と違うので、ある人が彼に声をかけました。「おい。あんた・・・名前は知らないけど、いつも同じところに座っているあんた。ちょっと止まってくれ。目、見えているじゃないか?どうして見えるようになったんだ?」と。彼は淡々と答えました「ある人が僕の目に泥を塗ってきて、それを洗い流したら、見えるようになったんです。」と。「その泥を塗ってきた人は誰だ?どこにいるんだ?」と聞かれ「それがいまいち分からないんですよね。なんせ、やり取りをしたときはまだ目が見えていませんでしたので・・・。」。周りはこの答えに納得せず、次第には村の偉い人達も呼ばれ、質問詰めされることになってしまいました。「いつから見えるようになったんだ?」「誰がそんなことを許したんだ?」「目をよくしてくれたその男はどこにいるんだ?」「もっとはっきりと答えられないのか?」「うちらを軽んじているのか?」。

 目が見えるようになって、初めて周りの人は彼のことを気づくことになったのですが・・・誰一人一緒に喜んでくれる人はいませんでした。「目が見えなかったわが友が、見えるようになった!神さまありがとう!今日は祝いだぁ!」と叫ぶ人は誰もいませんでした。「初めて見えるってどんな感じなんだ?次に目にしたいものはないか?まぶしくないか?」と質問をし、この不思議な体験を一緒にしようとした人はいませんでした。するどい質問が投げかけられる中、彼は言いました。「申し訳ないけど、僕に分かることは多くありません・・・むしろ分かることはただ一つです。さっきまで見えなかったのですが、今は見えるのです。」と。村の人たちや偉い人達はこの答えにも不満を覚え、結局彼は、村から追い出されてしまいました。「せっかく喜ばしいことが起きたのに・・・せっかくこんなにも世界が美しいのに・・・何でこんなにもみんな怒ってるんだろう」と彼は思ったことでしょう。でも、彼には見えるものがありました。それは、ただ単に、周りの世界が見えていただけではありません。

 みんなはこのお話を聞いて、どう思いますか?とても、もったいないことが起きていると思いませんか?考えてしまいます・・・いったい誰が見えていなかったんでしょうね?周りの村の人たちは、目は見えていたはずですが、肝心なことを見落としていました。目の前に嬉しいことが起きているのに、それが見えなかったのです。そもそも、あの彼を、ずっと透明人間のようにしてきたのです。

 イエスさまは違いました。あたかも透明人間のようにされてきた、その彼にイエスさまは目を止めたのです。神さまに大事にされている、大切な一人の人間として接したのです。イエスさまが目を止めてくださったことをきっかけに、彼は今まで経験したことがないほどの嬉しさに目覚めることになったのです。彼が見えていたのは「この私にも神さまが目を留めてくださった」ということでした。

 ここで、最初に観た動画をもう一度見たいと思います。この赤ちゃんは・・・に目がはっきり見えるようになって、とても嬉しかったんだと思います。でも同時に・・・むしろそれ以上に・・・大好きなお母さんの愛情が伝わってきたから嬉しかったんだと思います。同じように、今日のお話の主人公は、目が見えるようになってとても嬉しかったと思います。そしてそれ以上に、周りからは透明人間のように扱われてきた自分に、神さまが目を止めてくださっていることに気づき、とても嬉しかったんだと思うのです。神さまは自分のことを、何か悪いことをした人ではなく、喜ばれていることに目が開いたのです。

 神さまは、誰かを、あたかも透明人間であるようにしません。周りの人や状況がそうしたとしても、神さまは、誰かを見落とすことはありません。そして、ここで言う誰かとは、あなたのことであり、あの人のことであり、僕のことであるのです。神さまはあなたをそしてあの人も、僕もとってもとっても大事にしている・・・ただ、この一つのことに目を開いてみないか?・・・と招かれているように思うのです。

 

見えない神が目を止めてくださる

 自分のことしか断言できませんが・・・私たちは見えていないことが多いのではないでしょうか。あるいは、見て見ぬふりをすることも少なくないのでしょう。心配事で恐れにかられ、神さまが与えて下さっている美しさと感動の出来事になかなか目が留まらないことがあるのでしょう。あわただしさの中で、目の前の人を透明にしてしまうことはないだろうか。

 そういう私たちであるのでしょうけど、イエスさまはわざわざその私たちのところに臨んでくださるのです。見えない・・・見ようとしない私たちにあえて出会ってくださるのです。今日の主人公はイエスさまに癒されましたが、その時点ではイエスさまのことを目にしていませんでした。私たちも全く同じ体験をするのではないでしょうか?見えない神に触れられ、不思議と癒されるのです。見えない神さまに心底愛されていることに目が開くのです。上手に説明できないのですが・・・神さまの愛の眼差しに目が開かれる時、世界がまるっきり違うように見えるのです。透明人間など、いない世界です。

 ですので、私たちが断言できるのは、これではないでしょうか?私たちは見えないことが多いのかもしれませんが、神さまは私たちをずっと見てくださるのだ・・・と。神さまは愛の眼差しをずっと注いでくださるのだ・・・と。その愛情をとどけるために、イエスさまは私とあなたと出あってくださるのだ・・・と。 

 

(牧師・西本詩生)

 

 

 


『 良い羊飼い 』

詩篇23:1~3

ヨハネによる福音書10:7~18

2024年2月4日(日)

 

子どもメッセージ

 雪が降る前・・・去年の10月に、中高生・青年たちと、千歳の箱根牧場に行ってきました。帯広、室蘭、小樽からもお友達が集まり、畑仕事のお手伝いに加わりました。その時に、羊やヤギが過ごしている囲いの中の掃除をしました。具体的に何をしたかというと、地面に落ちている木の枝を拾って集めました。木の枝があると、動物たちは間違えてそれを踏んでしまい、足にケガをしてしまうそうです。「動物たちは意外と弱いんです」と農場の人に教えてもらいました。少し似たような感じで・・・うちの家の床におもちゃがあちらこちらにあって、何度かそれらを踏んで痛い思いをしたことがあります(笑)。ともかく・・・農場で、集まった10数人でこの「枝拾い」のお手伝いをし、15分ぐらいで終わりました。でも・・・もしもその「枝拾い」をたった一人でしたら、1~2時間はかかったと思います。数日ごとにこれをしなくてはいけないと考えると、羊やヤギを大事に育てることは簡単なことではない・・・そんなことを教わったと思うのです。実際こういう話を耳にしたことがあります・・・牛、豚、鶏、羊・・・それぞれ育てるのは簡単なことではありませんが、羊を飼うことはずば抜けて大変であるということです。なぜなら、羊たちは自分たちだけですと、うまく生きられないからです。助ける羊飼いがいないと、迷ってしまったり、ケガをしたり、必要な餌を探せなかったり、きれいな水にたどり着けなかったり、ねらってくる動物から自分を守れなかったり・・・羊は自分の毛の手入れすらできないのです。羊飼いの助けがないと上手に生きられないのです。

 今日の聖書で、イエスさまはこう言っています。「わたしはよい羊飼いである」と。あれ?イエスさまって、大工さんじゃなかったっけ・・・と思う人もいるでしょう。イエスさまが「わたしはよい羊飼いである」と言ったのは、例え話として語ったのです。羊と羊飼いに例えるのであれば、イエスさまが羊飼いであり、私たちが羊なのです。イエスさまがいないと、なかなか上手に生きられないと言う意味で私たちは羊のようであるということです。私たちも羊のように、迷ってしまったり、落ち込んだり、自分たちだけだと、どうにもさっちもならないということがあるのでしょう。でも、イエスさまがよい羊飼いなのだから、「大丈夫だ!」「安心しなさい!」と言われているのです。

 よい羊飼いがおれられるということは、そうではない羊飼いもおられるということです。何を持ってイエスさまは「よい」羊飼いなのでしょうか?一つは、囲いに入れてくださるということです。恐らく、その囲いの中はしっかりと手入れがされているのでしょう。誰もケガをしないように、枝やゴツゴツした石コロは除いてあるということです。当時は、石を積み上げて囲いを作ったそうです。そして、出入り口付近に、羊飼いが座り込み、羊たちを見守るという習慣があったそうです(7節:「わたしは羊の門である」)。夜になると、羊たちを狙うおおかみがやってくるかもしれませんので、よい羊飼いは、いつでも羊たちを守れる用意・・・すぐに起き上がる用意をしていたのです。同じように、イエスさまは私たち一人一人に気をかけて見守っているのです。すぐにでも、助けに来られる備えをいつもされているのです。

 この囲いの出入り口にもう一つの役目がありました。出入りするところがとても狭いため、同時に通れるのはせいぜい一・二匹です。この出入口を通る時に、羊飼いは一匹一匹がケガをしていないか、弱っていないか、栄養が足りているか、むしろ取り過ぎていないか・・・丁寧に見るのです。ちょっとでも「おかしいぞ」と思えた時には、そぐさまその羊の必要にあたるのです。イエスさまが、私たち一人一人が必要としていることを、私たち以上に知っておられ、それをちゃんと与えてくださるということです。具体的に言えば、毎週私たちは礼拝に集められています。心を合わせてお祈りをし、讃美をし、聖書のお話を味わって、今日みたいな月のはじめは、パンとブドウジュースを味わいます。この礼拝で、神さまがこの私に何かを伝えようとしている・・・私たちが必要としている何かを与えているのです。それは、新たなチャレンジに踏み出すための勇気なのか、落ち込んでいる時の励ましなのか、悲しんでいる時の慰めなのか、高ぶっている時の砕きなのか、心が乱れている時の安心なのか、一人一人の必要は少しずつ違うのでしょうが、イエスさまはちゃんと与えてくださるのです。羊たち一匹一匹を見るように、私たち一人一人に気にかけてくださっているのですから。

 イエスさまが「わたしはよい羊飼である。」と言われた時、その次に言われたのがこれです「よい羊飼は、羊のために命を捨てる。」。イエスさまは自分の命を捨ててまで、私たちを守って、導いて、育ててくださっているということです。イエスさまが十字架で命を捨てることで、私たちは命をいただいたのです。イエスさまは自分の命を一人ひとりに配るほど、私たちを愛している・・・この神さまからの愛情を、パンとブドウジュースを礼拝の中で味わうことで体験しているのです。

 羊飼いと羊たちが、今日の聖書のお話の中心となっていましたので、インターネットや本なのでいろいろと調べてみました。調べていたところこんな動画が見つかりました。ある羊飼いが、自分が飼っている羊たちに声をかけると・・・みんな喜んで集まってくるのです。他の動画を見ましたが、知らない人が呼びかけても羊たちはまったく寄ってきません。目線さえ合わせようとしないのです。

 私たちの日々の中でいろんな声が聞こえてくるのでしょう。自分を生かす、励ます声もあるでしょうけど、そうでない声も聞こえてくるかもしれません。「もうだめなんじゃないかぁ」、「自分だけで何とかがんばれ」、「お前にはがっかりしたぁ」と・・・否定してくる声が聞こえてくるのでしょう。動画を見ながら、僕は教えられました。イエスさまの声を聞くということです。イエスさまの声は、私たちを引き上げ、命を与えてくれます(10節:「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。」)。「大丈夫だ。よい羊飼いであるわたしがおるじゃないか。」「だめなんかじゃない。」「あなたはどれだけ愛されているのか」。この声を、羊たちのように聞いて、嬉しくなる私たちであり続けたいのです。

 

パパのような心を持つ神さま

 2019年に来日した教皇フランシスコにまつわるあるエピソードを最近耳にしました。イタリアの小さな教会を尋ねた際に、子どもたちの質問に受け答えをする時間が設けられました。ある男の子がいざ質問をしようとするとマイクの前で固まってしまったのです。教皇は彼にささやきました「わたしの耳元なら話せるかい」と。男の子はうなずき、教皇が座っているところにいき、しばらく泣き続けました。教皇は彼を抱きしめ、励ましました。そして、その近い距離で話をしたのです。それが終わると、男の子は少し落ち着いた様子で自分の席に戻りました。

教皇は、他の子どもたちに向かってこう語り始めました。「この子から許可をもらったので、みんにも、私が聞かれた質問を伝えたいと思います。」その子は最近父親を亡くし、父はその後どうなってしまったのか・・・天国に行かれたのかが心配だったのです。このことについて質問をしたかったのですが、恐らく、どのような答えが戻ってくるのかが怖くて、父を亡くした悲しさに加えて、このことで泣き崩れてしまったのです。「お父さんはクリスチャンではなかった・・・とてもいい人だった、自分の子どもたちにバプテスマを受けさせた」と教皇に泣きながら伝えたのでした。教皇は他の子どもたちに眼差しを向けて、このように語りました。「私たちは覚えていないといけません。誰が救いに入るのか・・・それは神さましか決められないということです。同時にこれも覚えていないといけません。神さまはパパのような心をお持ちであるということを。」そして続けて、子どもたちに問いかけました「彼のお父さんが、子どもたちにバプテスマを受けさせたのは、よいことではないですか?」すると子どもたちは答えました「そうですで!」と。そして、教皇は続けました「わたしたちがいいことをする時、神さまは喜びますよね」と。こどもたちは「そうです!」と答えました。教皇はさらに続けました「パパのような心をお持ちである神さまは、この子のお父さんを、ご自身から遠ざけるでしょうか?」と。数人のこどもたちが、ちょっと戸惑いながらいいました「いいえ・・・遠ざけません・・・」と。教皇は子供たちに訴えました。「もっと大きな声で、確信を持って言いなさい。神さまは、この子のお父さんを、ご自身から遠ざけるでしょうか?」。すると子供たちは元気よく答えました「いいえ!」と。教皇は、さっきまで泣いていた子に笑みを浮かばせ、語りました「これが答えだ。パパのような心を持つ神さまは、あなたのお父さんを遠ざけることはできない」と。これを聞いた男の子の顔に笑顔が戻ったのでした。

 僕はこのお話を聞いた時にとても励まされました。怖がって泣いている5・6歳の神さまの子どもが心から安心を得られるように、配慮する教皇の牧会の姿に学ぶものが沢山あるなぁと思わされたのでした。けれども、この男の子との会話をきっかけに、教皇はカトリック教会内外から厳しい批難を受けたのでした。「信じない者が救いに入れるなど・・・とんでもないことを教えている」と。

 

「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある」

 今日の聖書でイエスさまは言いました「私がよい羊飼いである。私は羊たちのために全てをささげる、命を与えるまで全てを与えつくす。わたしは羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。」そしてさらに言います「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。」と。

 イエスさまのこの言葉を聞いた弟子たちは、当初は、意味が分からなかったのでしょう。でも、キリスト教会が広がっていくなかで、ユダヤ人ではない人たちが神さまに出会わされ、加わっていったのです。最初の弟子たちはみなユダヤ人でしたので、ユダヤ人ではない人たちが、途切れることなく教会に加わって来ることに極度の違和感を抱いたのでした。神さまの愛の広さに驚かされたのでした。

 イエスさまは私たちにも語りかけているのではないでしょうか。「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。」。イエスさまの当初の弟子たちと同じように、「他の羊」が誰を指しているのかは分かりません。でもこれだけは言えるのではないでしょうか、イエスさまの当初の弟子たちと同じように、私たちも驚かされるのだと。神さまの愛の広さは私たちが思い描くよりもはるかに広いということに繰り返し驚かされるのです。

 

よい羊飼いに「救いようがない」という発想があるのだろうか?

 こんなことはないでしょうか。自分のこの部分は救いようがない・・・この事柄だけはどうしようもないと思っている事。または、あの人だけは救いようがないという発想。正直言いますと僕にはあります。意図はしていないのですが、このような考えをもって、神さまの無限の救いと愛に、こっちから限りを作ってしまっているのです。せっかく、ものすごいことを見せられるのに、こっちからさえぎってしまうのです。

 神さまは、比べようにならないぐらいよい羊飼いなのだから・・・パパのようなとてつもなく広い愛の心をお持ちなのだから、諦めているその心配・・・断念しているそのしこり・・・それを神さまの耳元にささやいてみないか・・・そう招かれているように思えてならないのです。 

 

(牧師・西本詩生)