説教要約

7月1日

 そんなつもりはなかった人たちの献身 』

 マルコによる福音書15:42~47

 

 アリマタヤのヨセフという人物について、あまり詳しいことはわかりませんが、福音書記者たちの紹介を総合すると、彼はユダヤの最高法院の議員でありながら、イエスの弟子となったものの、ユダヤ人たちの反発を恐れてそのことを隠していた金持ちだということになります。そして、そうであるとすれば、彼はあの大祭司邸の中庭で、イエス様が理不尽にも「死に当たるもの」と定められ、人々からつばきをかけられ、こぶしで殴られる様子を、最高法院の一員として目の当たりにしていたはずなのです。ルカによれば「彼は議会(最高法院)の議決や行動には賛成していなかった」ということですが、それにしても、その時の彼にはなすすべもなかったのでしょう。ですから、この時同じ場所で、「イエスなど知らない」と三度も否んだあのペテロと同じように、いやもしかしたらそれ以上に、彼はどうしようもない無力感と罪悪感とを覚えつつ、イエス様の十字架の死にまで立ち会ったのではないでしょうか。ところが、そんな情けないヨセフが、息を引き取られたイエス様の屍を自ら引き受け、自分の墓に葬ったのです。そのことによって、彼が必死にひた隠しにしてきたイエス様の弟子であることは公になってしまったでしょうし、そのことはその後の彼にとって決して穏やかなことではなかったはずです。それでも、死にゆくイエス様を目の前に何一つなす術もなかった彼にとって、それはせめてもの償いの業だったのでしょう。

 

 そのヨセフによる葬りを静かに見守ったのが、ガリラヤからイエス様に従ってきた女性たちでした。福音書記者マタイは、葬りを終えたアリマタヤのヨセフはそこを去ったことを証言しますが、この女性たちはなおそこに残り、イエス様の死を悼みました。彼女たちは、イエス様のことを捨てて逃げ出したあの弟子たちのように、家族や財産を捨ててまでイエス様に従った直弟子であるという自負はなかったでしょう。ただただイエス様を慕い、ついてきただけだった・・・。しかし、イエス様のこの葬りの場面でも、そしてあの復活の場面でも、重要な働きを担ったのは、“献身者”だと自認した弟子たちではなく、この女性たちであり、あのアリマタヤのヨセフであったことを心に留めたいと思うのです。

 

(牧師・石橋大輔) 


過去の説教要約

7月1日

“神のために”でなく“神が私のために”

士師記8:22~35

6月24日

慰められていますか?

コリント人への第二の手紙1:3~7

6月17日

死から命へと移される

ヨハネによる福音書5:1~18