説教要約

10月28日

『 みんな違って、みんな同じ 』 

コリント人への第一の手紙12:4~13

 

 パウロはかつてクリスチャンたちを迫害していました。それは彼が生粋のユダヤ人だったたため、生粋のユダヤ人として自分が大事にしていること(律法の遵守)を大事にしようとしない人たち(クリスチャンたち)のことが、自分とは異質な存在として受け入れがたかったからでしょう。ある意味で、異質な存在である彼らと向かい合うこと、関係をもつことが怖かったのではないでしょうか。だからと言ってその人たちのことを縛り上げて投獄するというのは極端なことだとは思いますが、そんな自分とは異質な存在への恐れというものは少なからず私の中にもありますし、異質な存在へどこか攻撃的になってしまう自分自身を認めざるを得ません。

 

 ところが、そんなパウロが、復活のキリストとの出会いを通して変えられていきました。具体的に言えば、自分とは違うからという理由だけでやり取りしようともしなかったその相手(クリスチャンであるアナニヤ)によって自分のために祈られたことで、彼はその異質な者と向き合わざるを得なくなってしまったのです。ですから、それはパウロにとって決して自ら望んだことではなかったはずですが、そこからの彼は、だんだんと自ら「違い」へと「違い」へと向かわされていったようにすら感じられます。それはどこかでその異質な者とのやり取りが、彼にとって「面白い!」と思えるようになったからかもしれません。

 

 それまでのパウロにとっては、自分と「同じ」ということは、守るべき対象だったのだと思うのです。何とか自分たちは「同じ」であるということを確認し合い、逆に言えば「違う」ということに対しては目を背け、それでも無視できない「違い」は排除する・・・という、そんな努力によって、「同じ」であるということを何とか担保しようとする・・・。でも、そもそも私たちは一人ひとりが「違う」のです。神様によって「違う」ように造られたのですから。そうであれば、「同じ」であるということを大前提にはできないのです。パウロはそのことに気づかされていったので、このように語ったのでしょう。「からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つである」と。「同じ」であること、「一つ」であることは、何とか守っていくようなことではなく、「違う」ことを喜び合うことで、その裏返しとして確認していけることだということではないでしょうか。「みんな違って、みんな同じ」という、矛盾するようなことを、神様は喜びとして与えてくださっているようです。

 

(牧師・石橋大輔) 


過去の説教要約
10月28日 恐れることはない マタイによる福音書14:22~33
10月21日 散らされることが祝福となるとき 創世記11:1~9
10月14日 やっぱりヨナはヨナだよな ヨナ書1:15~17、2:10