20240512主日礼拝

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『 務めはいろいろでも主は同じ 』

コリント人への第一の手紙12:21~24

コリント人への第一の手紙12:1~11

2024年5月12日(日)

 

子どもメッセージ

   皆さんはおたる水族館に行ったことはありますか。見どころが沢山あり、その中でも海の動物たちによる数々のショーは大人気です。イルカ・ショーでは、イルカたちが飼育員の「ピー」という笛の合図で、動き回ります。右にも左にも逸れず、決まったコースを猛スピードで進み、時には空中で回転したり、前の方に座っている人たちに水がかかるほどバシャンバシャンと水しぶきをあげたり、飼育員を背中に乗せたり、その迫力に観客は圧倒されます。

 決まったコースを、1cmも外れることなく、完ぺきにショーをこなすイルカさんたちのショーは注目を集めますが、別の意味でペンギンたちによるショーも大人気だと言えるでしょう。というのも、おたる水族館のペンギン・ショーは全国的に知られているようです。どういうことで知られているかというと、ペンギンたちは、ほとんど何も飼育員の指示を聞き入れないのです。飼育員が「右」と言っても、ペンギンたちのみんなはバラバラにちらばっていきます。プールに「飛び込め!どうぞ!」と言っても、滑って転がり落ちるペンギンはいるものの、その他のペンギンはみんな自分の方向へと進みます。見方によっては、イルカ・ショーの完成度に比べると、ペンギン・ショーはグダグダでまったく“まとまって”いないのです。際立つことがあるとすれば、それはペンギンさんたちの自由さです。

 教会はイルカさんたちの集まりでもなく、ペンギンさんたちの集まりでもなく、人々の集まりです。そうなんです。教会は建物ではありません。人々の集まりです。神さまに呼び出され、神さまに集められた群れ、それが教会です(ギリシャ語:エクレシア)。そして、時々僕は、いろんな人たちの集まりである教会が「まとまること」・・・「一体」となることってどういうことなんだろう・・・と考えるのです。僕は、牧師であるゆえのクセかもしれませんが、水族館の動物たちのショーを観ながら、教会にとって「まとまること」ってどんなことなんだろうと考えるわけです。

 今日の聖書は、ある教会に送られた手紙ですが、その教会ではこんなことが起きていたのです。一握りの人たちが、それぞれの特技・・・教会での役割を自慢し合っていたのです。ある人はいろんなことを知り尽くしていることを自慢していました(8節)。またある人は現代でいうお医者さんのような人だったのでしょうか・・・病気を癒せることを自慢していました(9節)。またある人は、周りの人を魅了させるほど熱心に祈ったり語ったり歌ったりする特技を自慢していました(10節)。この教会には、自慢できるほどの役割をもっていた一握りの人たちがおられましたが、大半の人たちは自慢する人たちではありませんでした。むしろ、「わたしには自慢できるほどのことはなにもない」と思っていた人の方が多かったのです。“すごい”と褒められる特技を持つ人たちが目立つために、「わたしは何もできない」という気持ちになってしまう人もいたのです。このようにして、まったく「まとまり感」がない、極めてバラバラな教会だったのです。おたる水族館のペンギン・ショーに少し似ているところがあると言えると思います。

 このような教会に送られた手紙で強調されたのは、おおまか三つのことです。一つ目は、「みんなそれぞれ、神さまからいただいた特技・・・役割をすでに持っている」ということです。「わたしは何もできない・・・何もない」とは言わせないというのです。すでに、神さまから大事なプレゼントをもらっている。そのプレゼント・・・役割とは、具体的に言うと、「イエスさまが主である」ということを言い表すことです。もっと簡単に言えば「イエスさまがいないと生きれない・イエスさまが必要なんだ」・・・このことを思うこと自体が、神さまからのプレゼントだというのです。

 先ほど、教会は人の集まりであると言いました。神さまが集めてくださった人の集まりです。これを聞いて「うん?」と思う人もおられるかもしれません。「今日朝起きて、自分の足と思いで教会に来たはずなんだけど」・・・と。確かにそうだと思います。でも聖書に言わせれば、私たちの思いよりも先に、神さまが集めてくださったんだということです。同じように、私たちは、自分の言葉で「イエスさまが主である・イエスさまが必要なんだ」と言うのかもしれませんが、私たちよりも先に、神さまがその思いをプレゼントしてくださったんだ・・・と聖書は言うのです。そして、それを言い表すことが、それぞれにすでに与えられた特別な役割であるというのです。「イエスさまがおられないダメなんだ・イエスさまが必要なんだ」、この思いが抜け落ちてしまったら、教会はイエスさまの教会ではなくなってしまいます。ですから、これは、ずば抜けて特別なプレゼントなのです。

 二つ目に手紙に書かれたことは、それぞれの特技がどこから来たのかを考えれば、それは神さまからいただいたプレゼントであるということです(4~6節)。いろんなことを知り尽くすことも、病気を癒せる特技も、熱心に祈ったり語ったり歌ったりする特技も、同じ神さまからいただいたプレゼントであるということです。ですので、自慢するものでもなんでもないのでは?と語りかけてくるのです。

 そして、三つ目に手紙がいうのは、いろんな人・・・いろんな特徴を神さまからいただいている人が集まるのが教会であり、それをまとめて「一体」とするのは人ではなく神さまであるということです(24節)。

 おたる水族館のペンギン・ショーでは、ペンギンたちのバラバラ感が目立ちます。けれども、飼育員がペンギンたちの自由な動きに合わせて対応することで、不思議にもショーが一つにまとまるのです。支持通りにプールに飛び込むのもよし。飛び込まないのも良し・・・なのです。そのようにして、ペンギンたちの特徴が輝くペンギン・ショーが毎回「まとまって」出来上がるのです。

 教会が「まとまって一体となること」ってどういう事なのかを考えることがあると先ほど言いました。もしかしたら、僕が考えがちの「まとまる」こととは、イルカ・ショーのように完璧に整えられたものなのかもしれません。けれども、さまざまな役割と特徴をいただいている人たちが集まるのが教会なのであれば、ペンギンショーのような「まとまり」方もあるのではないかと考え始めています。つまり、神さまは飼育員のように、私たちの(聖霊に促された)一見自由な動き・・・一見予想外の動きをも使って、「まとまり」を作り出すのです。神さまだからこそできる働きなのでは・・・そんなことを今日の聖書を読みながら考え始めています。

 

イエスが主である

今日は12章を読んでいます。口語訳では伝わってきませんが、1節の出だしで「さて」と言う言葉からはじまり、11章で語られてきた「主の晩餐」の話題に区切りが打たれ、今度は「霊的な賜物」の話題に移り変わっていることが伝わってきます。恐らく、コリント教会の一握りの人たちは「われこそが霊的な賜物を持っている」「他でもなく、これこそが神さまが喜ぶことだ」と思い込み、水面下で競い合いが起こっていたのでしょう。それゆえに大半の人たちは、「そんなすごいことなど私にはできない」と考え、教会の人のほとんどは劣等感を抱きざるを得ませんでした。それぞれがのびのびできる、風通しがいい教会というよりは、息苦しい空気が漂っていたのです。もうちょっと突っ込んで言えば、本来、みんなが賜物を神さまから頂いていたにも関わらず、それを発揮できずにいたというのが現状だったのでしょう。とてももったいないことが起こっていたのです。

パウロは、12章以前のところどころで、感情をあらわすほど、コリントの信徒たちを叱ってきたと言っても過言ではありません。けれども、不思議にも今日のところでは、叱らないのです。「それは霊的な賜物ではない」など、否定は語りません。それぐらい、霊の賜物は多様であることを知っていたのでしょう。パウロはむしろ、教会の中で自慢されていた役割や特技をも取りあげながら、そもそもそれは自分のものではなく、神さまからいただいた賜物であることを語ったのです。

でもそれらを取りあげる前に、それぞれが既に与えられている根本的な賜物について、最大限の強調を込めながら語りました。1節で、「次のことを知らずにいてもらいたくない」・・・そして3節で、「あなたがたに言っておくが」と語り、それぞれに既に与えられている、共通する賜物について語ったのです。それは「イエスが主である」ということを告白することです。この告白が、神さまからいただいた、恵みのプレゼントであり、霊なる神が与えなければいただけない賜物であると言うのです。

なぜここまで、これを強調するかというと、恐らくパウロの考えの中では、賜物の形・・・それぞれの与えられた務めや奉仕はいくらでも形はあるものの、全ては「イエスが主である」という告白に基いているということが肝心であったのです。「イエスが主である」と告白する故に、知恵の言葉を語り、「イエスが主である」と告白する故に癒しをなし、「イエスが主である」と告白する故に熱い異言を語り・・・「イエスが主である」と告白する故に私たちは祈るのです。

興味深いことにパウロは「キリストが主である」とは言いませんでした。あえて、「イエスが主である」と語りました。つまり、ナザレのイエスが主であるということです。真の人となった子なる神がいなければ、私たちは本当の意味で生きることができないという告白です。飼い葉おけという孤独と貧しさにお生まれになったイエスさま、悲しむ者と共に涙を流し、喜ぶ者と共に喜ぶイエスさま、友なき者の友となるイエスさま、自らの命まで十字架で分け与えたイエスさま・・・そのイエスさまが、私たちの日々の道筋を示してくださるという告白がここにあります。「イエスさまが主である」と告白すること・・・「イエスさまの後をついていく」こと・・・この恵みのプレゼントに、繰り返し、繰り返し戻ってくることが、キリスト教会の原点であるとパウロは確信していたのです。それが、皆に共通する霊的な賜物だと断言するのです。

 

大切にしたいこと

 早いもので、私は札幌教会と一緒に歩みはじめて4年目に入りました。最初の2年間はコロナの影響を極度に受けた期間でありましたが、昨年度からやっと札幌教会の姿が見えてきたように思うのです。私たちの教会の豊かさは、活動の種類の幅の広さではないかと思わされることが沢山あります。先週は幼稚園の創立70周年記念日でしたが、教会の発足当初から、福音のために、あらゆる活動に挑戦してきたのです。

 このように、幅広い活動が進められる中で時々耳にするのが、「一体感」が薄いということです。もちろんこのように、ストレートには言われませんが、そのような類のお話を耳にすることがあります。そこに含まれている悩みは、一つに絞ることはできませんが、恐らく「協力する人がもっといたらいいな」「理解してくれる人がもっといたらいいな」という思いが込められているのでしょう。分からなくないわけではありません。

 子どもメッセージでも語りましたが、聖書が言う「まとまって一つの体となる」ことは何なんでしょうね。はっきり言えることは、神さまがなしてくださるということです。そして、顕されるのは、「キリストの体」です。だからパウロは今日の出だしのところで、「イエスさまが主である」と告白することが、教会の出発点であり、繰り返し、繰り返し帰ってくるところだと最大限に強調するのです。

 今日は総会懇談会が午後に開かれます。それぞれの活動報告と計画について聞いて、分かち合える場でありますが、「イエスさまが主である」と告白されているところを、それぞれの活動のうちに互いに観られたら、それはとても嬉しいことだと思うのです。今日の聖書が言うように、「務めはいろいろなのですが、主は同じ」なのです。同じ主が、それぞれの内に働きかけて下さるのですから、それを喜ぼうではありませんか。私たちの主が「一つのキリストの体」と形づくってくださる聖霊の働きを観て、体験していきたいものです。

 

(牧師・西本詩生)

 

 

 


20240505主日礼拝

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『 とびっきり“おいしい” 』

マルコによる福音書2:15~17

コリント人への第一の手紙11:17~26

2024年5月5日(日)

 

子どもメッセージ

  今日はゴールデンウイークの真っただ中ですが、遠出をしているお友達もいるでしょうし、逆に札幌に遊びに来られているお友達もいると思います。人それぞれだと思いますが、どこか旅行にいくと、そこでしか食べられない「おいしい」という評判のものを食べたくなるのではないでしょうか?札幌に遊びに来られているお友達には、「“あそこ”で“あれ”を絶対に食べたほうがいいよ」とお勧めするものです。皆さんは“どこ”の“何”がお勧めでしょうか?

 僕は、6歳から12歳まで、日本の南にある台湾というところに住んでいました。そして、僕が住んでいた近所に、とびっきりおいしいラーメン屋さんがありました。いつ行っても並ばないと入れないぐらいの人気ぶりでした。日本から訪ねてくるラーメン好きの親戚がいれば、そこをよく紹介したものです。そのおいしさがばれてしまって、今では、日本のテレビ番組でも紹介されるほど、知られたお店になっています。

そこは、どちらかというと、小汚いお店でした。落ち着いた店内の雰囲気で勝負しているというよりは、味と値段の安さで勝負していることがすぐに伝わってきます。椅子はパイプ椅子で、テーブルは相席でした。ですので、必ず知らない人と肩を並べながら食べていました。床は綺麗にしていたと思いますが、それでももう何十年もお店をしていたということで、靴底が一瞬ペタッとくっつくような感じでした。店内はいつも人で溢れていましたので、注文内容の呼びかけが飛び交い、厨房からの音も聞こえてきて、ガヤガヤして、とても賑やかでした。

 これは、僕の偏った理解かもしれませんが、台湾の人のほとんどはおいしいものを食べることに関して、極度に関心を寄せます。「おいしいものには目がない」と言っていいと思います。ですので、こういうことが起きるのです。僕が住んでいた近所にあった、いつも行列ができるラーメン屋での事です。いつ行っても行列があったのですが、その行列にも特徴がありました。そこに並ぶのは、ぞうりをはいた学生さんもいれば、仕事を終えた作業服姿の人もいれば、近所のお母さん方もいれば、高級車のロールズロイスに乗ってきた、見るからにも高そうな服装の人もいるのです。普通に、大企業のお偉いさんや政治家とかも並んでいたのです。普段他の場面で肩を並べることはないはずの人たちが、とびっきりおいしいラーメンを求めて列に並び、店内では肩を並べて、麺をそそっていたのです。

 このようなお話は一つのたとえ話として紹介していますが、イエスさまとの食事でも同じようなことが起きていたのではないかと思うのです。普段他の場面で肩を並べることがないはずの人たちが、他のどこでも得られない“何か”を得られるから・・・魂に染みこむ、とびっきり、ずば抜けた“愛情”をそこで得られるから、イエスさまを囲んでいたのです。

 イエスさまとの食事は、普段食事を共にしない人たちがそこに集まったことに特徴がありました。一般的には“きらわれもの”・“やっかいもの”と見られていた人たちと、イエスさまはあえて食事をしたのです。だからといって、特に目立たない人がいなかったわけでもありません。いろんな人がいて、当時のお偉いさん・・・政治家さんたちもそこに集まりました。イエスさまの最後の食事の場面では、その数時間後には、自分を置いてきぼりにし、売り渡す人たちも共に座っているのを知りながらも、共に食事をしたのです。そのぐらい、イエスさまの食卓から追い出されることはなかったのです。そして、イエスさまを囲む食事は、恐らく静かなものではなかったのでしょう。気にしようとすれば、周りに気になる事はいくらでもあったのでしょう。けれども、イエスさまと一緒にいると、そこでしか味わえない、魂まで沁み込んでくる“愛情”を感じるから、周りで気になるものが沢山あったとしても、それらはちっちゃく見えたのです。つまり、イエスさまとの食事は、ずば抜けて、とびっきり“おいしかった”のです。床がベタベタしていようが、周りがガヤガヤしていようが、それらが気にならないぐらいとびっきり“おいしかった”のです。ここでいう“おいしい”とは、味の意味で言っているのではありません。

 私たちは、月に一回、主の晩餐式を礼拝の中で行っています。ある意味で、そこでいただくパンはただのパンであり、ただのぶどうジュースです。ただのパンとぶどうジュースですから、とびっきりおいしいわけでもなく、不味いわけでもありません。けれども、それがイエスさまからいただいているパンでありぶどうジュースであると信じるときに、それをいただくことで、ずば抜けて、とびっきり“おいしい”ものになるのです。イエスさまが命がけで、そのパンとぶどうジュースを通して、新しいいのちをくださっているのですから。周りで何か気になる事があろうとも、それらが気にならないほど、“おいしい”のです。今日この後、主の晩餐式を味わいますが、魂まで沁み込む、神さまの愛情が詰まったパンとぶどうジュースであることを味わい、共に喜びたいものです。

 

分け隔てない「主の晩餐」ではなく、「各々の晩餐」の実態

 パウロは、11章2節で「あなたがたに伝えたとおりに言伝えを守っているので、わたしは満足に思う」とほめながら、しばらく、教会内の男女の立ち振る舞いについて語りました。しかし、今日取り上げている17節に入ってすぐに、「あなたがたをほめるわけにはいかない」という厳しめの言葉に一気に転じ、改善を強く求めていることがすぐに伝わってきます。パウロは、コリント教会で行われていた主の晩餐に極度の違和感を覚えていたのです。

 当時の晩餐式は、現代のもののように、一かけらのパンと少量のぶどう酒で行うものではなく、お腹も心も満たされる完全な食事でした。文字通りの晩餐だったのです。そして、それは月に一回行われるのではなく、毎回集まる度に行われていました。コリント教会で、何が起こっていたかというと、仕事をせずに過ごせる、経済的に言えばより裕福な一握りの教会の人たちが、まず食事を澄ましていたのです。日中の仕事や生活を終えてからやっとの思いで集った、経済的に貧しかった人たちが教会に辿り着いた時には、食事がほとんど何も残っていなかったのです。ひどい時には、先に食事を食べた人の中に、お酒を飲み過ぎて出来上がっていた人もいて、ものすごく楽しみながら過ごしている人たちもいれば、でもそのすぐ横には、空腹で過ごしている人たちがおられたのです(21節)。つまり、貧しい人たちは、主の晩餐の喜びと嬉しさから取り残されていたのです。このような教会の様子がイエスさまの教会なのか?とパウロは問いかけ、激怒したのでした。貧しい人への配慮が足りないということではなく、イエスさまの福音に反する姿であるために、パウロは警告を鳴らしたのです。

 子どもメッセージでは、美味しいラーメン屋さんのことを紹介しました。そこでしか食べられない絶品ラーメンを求めて、分け隔てなく、いろんな人が肩を並べていました。社会層の垣根を感じさせないお店であったということも、美味しさの秘訣であったかもしれません。けれども、そのような良い思い出とは真逆の記憶もあるのです。同じく台湾での事ですが、子どもであるからと言って、入れさせてくれないお店があり、私の父がそのことで激怒していたことを思い出すのです。「あなたはここには入れない」「あなたがここにいると困るんだ」という直接的な言葉でなくても、そのような思いが伝えられるのは、良い気持ちをしません。お店にはそれぞれの事情があるのでしょうが、イエスさまの教会で、そのような排他的な姿勢が許されるのか?イエスさまを求めている貧しい人々を、あなたたちは追いやっていいのか?イエスさまは貧しい人々を訪ねて、福音を分かち合ったのではないか?とパウロは投げかけたのでした。

 

この人を見よ

 23節以降で、恐らくイエスさまの直弟子から言い伝えられた伝承を、パウロは語りました。このような伝承です、「すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい』。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい』。だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」

 「わたしの記念として」という言葉が2回出てきます。私たちが主の晩餐において、まずすることがここではっきり示されてあります。イエスさまを思い起こすことです。イエスさまが貧しき人々と関わり、そこで共に涙を流し、共に喜び、癒しをなしたその歩みを思い起こすことです。同時に、徹底して人々に仕えるその生き様がやがて逆風を浴び、十字架に行き着くことであったことも思い出さなくてはいけません。皆のために、十字架で命まで分け与えたイエスさまが神さまによしとされ、死者の中から復活させられたことも思い起こすのです。この一連の生涯を思い起こすことで、ただのパンとぶどうジュースがそれ以上のもの・・・魂にまで沁み込む、とびっきり"おいしい"恵みの晩餐となるのです。分け隔てなく与えられる恵みの晩餐です。

 今日この後、讃美歌205「まぶねの中に」を歌います。この歌詞の中に、イエスさまの誕生から復活に至るまでの生涯がよく表されていると思います。2節にはこうあります、「食するひまも うすわれて しいたげられし 人をたずね 友なきものの 友となりて 心くだきし この人をみよ」。この讃美歌を作詞したのは、「きよしこの夜」をドイツ語から日本語に訳した、由木 康(ゆうき こう)という人物ですが、この讃美歌の解説にこのようなコメントが添えられていました。「作者が青年時代だった1923年、イエスの神性(神の性質)について思い悩んだ結果、イエスの神性(神の性質)はイエスの人性(人としての性質)のうちに含まれ、それを通して輝き出ていることを示され、一つの確信に到達した」。讃美歌で繰り返されるのは「この人を見よ」という歌詞ですが、イエスさまの人としての生涯に眼差しを向けることで見えてくるのは、神さまの無限の恵みなのです。その恵みは、イエスなど知らないと言い張ったペテロにも及ぶ恵みであり、イエスを引き渡したイスカリオテのユダにも及ぶ恵みであり、あなたと私にも及ぶ恵みであるのです。

 パンと杯をいただく私たちは、イエスさまに倣っていく日々に押し出されていくのです。どんなに頑張っても、イエスさまに及ぶことはないのでしょうが、イエスさまに倣っていくその歩みに、永遠の命があり深い喜びがあるのです。「この人を見よ」とパウロは語ったのです。イエスさまの生涯から眼差しをそらさない私たちでありたいのです。

 

(牧師・西本詩生)